4th inter. 中野と千代②

「……情けない話なんだけど、私が紬の面倒を見てあげているっていうより、あれは私を守るため。つまり保身のためなの」


 静かな独白。


 背筋を伸びて綺麗な立ち姿。

 話すときに相手を見据える強気な目。


 神田千代という女性を知る人ならば、大和撫子のような包容力がありながら、強さを兼ね備えた女性を想像するだろう。


 しかしながら、彼女の独白にはその強さの欠片も見受けられない。

 突如、デートの甘い雰囲気は霧散してしまったことで、中野は掛ける言葉が見つからないようだ。


「私ね、それなりに器用じゃない? 幼稚園のころにピアノを習い始めたんだけど、それなりに上手に弾けてね。お母さん先生もすごく褒めてくれて、自分は特別なんだ。才能があるから上手に出来るんだって。小さいながらに思ってたの。でもね……」


「出会っちゃったんだ。紬に。年長さんくらいだったと思う。たまたまピアノ教室で出会った小さな女の子。最初は年下かなって思うくらいに華奢で幼かった。なのに、お遊びの延長のように弾いたピアノで解っちゃったんだ。才能なんて言葉は、私みたいな小器用な人じゃなく、特別な人に使われるべき言葉なんだって。紬みたいな特別な子に」

「伏見は特別な子か……。分からなくはねえけど……」


 伏見紬の演奏を知れば、彼女の特別な才能を否定できるわけがない。

 どれだけ親愛の情を持つ千代の肩を持ちたくとも。


 彼女の演奏はホールにいた数百人の人々を魅了した。

 彼女にピアノを習いたいという生徒さんが多いことも、無趣味だった男子高校生が、突如ピアノを始めてしまうほどに影響力のある演奏家。


 特別なのは間違いはない。

 それでも中野にとって特別で大切にしたい女性は千代なのだ。


 ただ、千代の態度には、中野からの慰めを求めているようには見えない。

 むしろ最後まで聞いて共犯者になって欲しい。

 そう思わせるような重々しさがあった。


「それに気が付いたら、ちょっと上手く弾けるくらいで調子に乗っていた自分が恥ずかしくなって。すぐにピアノも辞めちゃったんだ。当然だけど、紬とはそれっきり。今思えば、才能が無い自分っていう記憶に蓋をしたかったのかもしれない。それでも小学校に入ると出会っちゃったの。紬に。相変わらず天真爛漫で笑顔が眩しく感じる子だった。でも勉強には興味なくて、テストの点も良くなかったし、忘れ物も多くて、そそっかしい今の感じのまんまでね。お母さん先生にも仲良くしてねって言われてたのに、逃げるようにやめたのが後ろめたかったのかな。なんやかんや紬の面倒をみるようになって今に至るって感じ」


「俺だったら気まずくて逃げちまいそうだな。何も考えてないみたいで、凄いことをやらかす伏見が近くにいたら、自分が小さく感じるだろうし」

「ううん、そうじゃないの。多分、私は紬の世話を焼くことで自分の存在価値を確認しているんだと思う。紬みたいに特別な才能はないけど、才能のある紬に頼られる存在でいられるなら、私にも価値があるんじゃないかって」


「小学生でそこまで考えるのか……。いや、考えちゃうくらいに伏見の才能を感じてしまったというべきか……」

「自我を保つための本能みたいなもの? 良く分からないけど、当時はそう判断したみたい。傍から見たら、紬は私に依存しているように見えるけど、実際に依存しているのは私の方なの。そう、私の方が依存してる。私なんてそんな程度の人間だよ。だから中野が言ってくれるほど、そんなに良い女じゃないよ」


 肩肘張ったような強張りは消え、年相応の少女の面影。

 近寄りがたい高嶺の花の印象は、とうに消えており、儚げな桔梗の花がそこにあるばかり。


 家族以外では、自分が一番の理解者だと自負していた中野にとって、この告白をどう受け止めるのだろうか。彼女に対して、誰もが抱く椿のような凛とした美しさは見えない。彼女の言い分では、泥中で苦しみながらも、天上の光に縋る哀れな人間に過ぎないと言う。


 明るくさっぱりした気性の彼女からは想像できない自己評価。

 誰がこのような彼女を想像出来たであろうか。


「俺はさ、学校のやつに何で野田みたいな奴といるんだって言われたことがあるんだ」

「えっ?」


 暗く沈んだ表情で俯く千代。

 唐突に始まった中野の言葉に驚き、思わず顔を上げてしまう。


 中野の選んだ言葉。それは慰めでもなく、肯定でもなかった。

 その言葉は、今この場にいない友人の野田について。

 仲の良い四人だから、野田といえば、顔がすぐに思い浮かぶ。

 それでも千代は驚きを隠せなかったのは、まさかこの場面で野田の話が出ると思っていなかったからだろう。


「そいつは、野田みたいな誰と話すでもなく、教室で存在感消しているやつと俺とじゃ釣り合わないって言いたかったらしいんだけどよ。正直、俺は野田のことが凄いって思ってんだ」

「…………」


 千代は、中野の突飛な話に頭が追いつかないようで、ポカンとした表情で聞いている。もしかすると、そのクラスメイトの言っていることが理解できなかったのかもしれない。


「野田ってさ、一人になりたいときは一人になりたいって顔してるし、入学直後で何とか人間関係を作ろうと躍起になっているやつらなんか気にも留めない。俺だって最初が肝心だって明るく振舞ったり、気を使ったりしてたのにさ」

「中野って実は陰キャ? 高校デビューだったりする?」


 やっと平常運転に戻り始めたようで、猫のようにキラキラした瞳で中野をからかう。


「うっせえな! そういうことを言いたいんじゃなくてだな。あいつは強いんだって話! 自分に素直で、揺るがない。それが羨ましくなって、教室でも本を読んで過ごすようになったんだ。本当は読みたい小説があっても、クラスのやつらが話しかけてきたら、我慢していたのに」

「そうなの。そんな流れがあったなんて知らなかった」


「凄い単純なことなんだけど、俺には勇気が必要だった。周りからどう思われるんだろう。格好付けるんじゃねえとか思われてないかって」

「たしかに。中野が本読んでる時ってスカしてる感じあるよね」


 千代は、分かるわぁとワザとくさい演技で混ぜっ返す。


「だから、今はそういう話じゃないっての! だけどさ、野田といると楽って言うか、等身大のままの自分でいられるって言うか。強さにも色々あって野田の揺るがなさは憧れるんだ。まあ、それを揺るがした伏見は凄いけどな。何が言いたいかっつうと、人間関係なんて多かれ少なかれ、お互いに依存しあってると思うんだよ。何をしたからダメって事じゃなくて、一緒に居たいからいるんだろ? 伏見も今の関係が嫌だったら千代にあんなに懐かないと思うし。あいつは正真正銘のドジっ子だけど、そういうところは本能で解りそうだしな」


 茶々を入れられても真面目な態度や言葉を改めない中野。次第に感化されるように真剣に聞く体制になる千代。

 必死になってあれやこれや言葉を紡ぐ中野は、千代の様子が変わったことに気が付き、本当に言いたかったことを告げる決心をしたらしい。


「つまり、だ。千代は昔っから千代で何も変わらねえ。気立てが良くて、明るいし、優しい。何より美人だ。入学式で見かけたときから惚れてる俺が言うんだから間違いない。……だから大丈夫だ。千代は良い女だよ」


 中野は照れもせず、真摯に相手の顔を見つめる。

 つられて千代も中野の顔を見つめている。


 相手に反応がなく、気まずそうにしている中野は、目線が泳ぎだし、口がモゴモゴしている。相手に響いていないと心配して、追加の言葉を投げかけようか逡巡しているようだ。


 しかし、そのせいで彼女の変化に気が付いていない。


「……ばっかじゃない。高校生のくせに良い女なんて言葉、キザすぎ!」

「ちょ! それは千代が言い出した言葉だろ!」


 小突き合う二人。

 最後は照れ隠しに過ぎない。

 顔を背け、わざとらしく悪態をつく。

 素直になれない千代とそれを理解している中野。


 誰もに好かれる明るさと社交性を持つ二人。

 同じように劣等感を持っていて、それを明かせない弱さもあった。

 それを共有できたことは、良いことであったか悪いことであったか。


 付き合いたての初々しさからは、想像できない話題であったのは間違いなかった。

 しかし、この二人にとっては必要な儀式だったように思える。


 なぜなら、二人の距離感は、寄り添って咲く桜のように近くなったのだから。

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