第五章 進み直した冬
43rd Mov. あの後の顛末と相談
「発表会に向けて練習し直すってことで良いのね?」
「はい。五月の発表会に向けて、また頑張りたいです」
紬とのデートで、かなり前向きになれたと思う。
だから、レッスンもズル休みせずに来れた。
足が重かったのは事実だけど、それは結先生にあの光景を見られたことが大きい。
先生はそんなことをおくびにも出さずに、いつも通りの態度を崩さない。
と、思ってたのも束の間――――
「良かったわ。立ち直れたみたいで。紬のキスのおかげかしら」
「ちょっ! キスなんてしてませんから! むしろそれ、結先生のせいでしたよ!」
「あら~。そうだったかしら? じゃあ次はクリスマスね!」
「クリスマス辺りは短期のバイトを詰め込んじゃってるので難しそうです」
「駄目じゃない。彼女は大切にしないと。イベント事は優先するのがモテるコツよ」
「それはそうなんですが、この時期は人手が足らなくて困ってると言われてしまって、断りきれなくて……。それにしても、結先生は応援したいんですか? それとも邪魔したいんですか?」
「邪魔したいわけ無いでしょ~。言うなればアレよ。覗いてみたいだけ?」
「世間一般では、それを邪魔というのだと思います」
「……さて、レッスンに入る前に反省会しちゃいましょう。あの発表会の演奏についてだけど、良い?」
結先生に話を振られて、あの失敗を思い出す。
未だ胸がズクズクするけど、逃げるほどじゃない。
「……はい。お願いします」
「よろしい。まず左手。練習では弾けていたけど、本番の緊張感では全然動いてなかったわ。本番で100%の実力を出せる人は少ないの。50%しか出せなくても問題なく弾けるように練習を積み重ねないと」
「はい。そうですね。特に僕は緊張しやすいみたいなので、必死に運指の練習をします」
「そうね。本番で何%出せるかは人それぞれ。本番に強い人は90%の実力を出せたりするし、10%も出せない人もいるわ。でもね、他人を羨むより、自分の技術を高めましょう。普段の練習とは別に、『指の練習曲集ハノン』という教本の練習を取り入れます」
「わかりました。帰りに買って今日から始めます」
「あとは、本番の曲を早めに決めること。再開の練習曲は、ブルグミュラーの『無邪気』、『狩り』、『牧歌』辺りでいきましょう」
発表会まであと五ヶ月という期間。
今回は発表会に出るという意思確認が取れていたので、長期的なプランで練習に取り組める。
きっと今まで以上に練習ペースが上がるだろうけど、もう一度チャレンジしてみる。
この苦い記憶を上塗り出来るように。
そして、彼女に見合う男になれるように。
※
『五月の発表会で弾く曲を決めるように言われたんだけど、相談しても良いかな』
今日はレッスン中だったのか、夕方に送ったメッセージが既読になることはなかった。スマホを部屋の机に置いたまま、夕食と風呂を済まして部屋に戻ると、メッセージが届いている通知が出ていた。
『良いよ~。方向性とかは決まってるの?』
『春先までにブルグミュラーが卒業出来れば、ショパンを弾いてみたいなって』
『おお~、ショパン! ついに! 拓人もショパン好きだったんだね!』
伝わっているようで伝わっていない気持ちに、少し苦笑いしてしまう。僕も鈍い方だけど、彼女も存外鈍い所がある。
『好きだよ、ショパン。ただ、僕に弾けるかどうか心配で』
『難しいのは間違いないかも。ショパンは特に楽譜通り以上の演奏が求められると思うの』
『どういうこと?』
『ええと、小難しい話になるんだけど、ベートーベンって知ってるかな?』
『うん、簡単なことくらいは』
『ショパンもベートーベンも有名な作曲家さんだけど、時代が違うの。ベートーベンは古典派に属する時代の人で、拍を重視してメトロノームからブレないの。逆にショパンはロマン派に属する人で、揺らぎとかタメを取り入れて、メトロノームから脱却を図っている感じと言えば良いのかな。そういう幅があることによって、弾く人によって面白くもつまらなくもなるのがショパンなの。ベートーベンは楽譜通りきっちり弾いていくから、ある意味弾きやすくてね。だからこそ、個性を出しにくくもあるんだけど』
結先生も重視している自分なりの演奏。
ショパンの話に出ているような幅の部分を指している気がする。
紬がショパンを選んだのも、そういう指導を受けてきた影響なのかもしれない。
問題は、僕がショパンを弾いても良いのかってことだ。
いや、弾くのは問題ない。それを発表会の課題曲にするのかどうかということ。それが問題だ。
おそらく、沼のように完成度を高める道に踏み込んでいくことだろう。
憧れたショパンの『英雄ポロネーズ』。あそこまで難しい曲ではなくとも、僕もショパンを弾いてみたかった。せめて彼女が引く曲と同じ作曲家の曲を。
だけど……。たぶん、それは無理だ。
形だけなぞったショパンを弾いたところで、僕が届けたい人に気持ちが届くとは思えない。近くにいても、遠く高みにいる彼女には。
頭では無理だと分かっていても、大丈夫なんじゃないかという誘惑が後を絶たない。
あれだけの失敗をしたにもかかわらず。彼女に相談するフリをして、ショパンを弾けないかと可能性を探っている。相変わらず、情けない。
諦められない気持ちを飲み込んで、彼女へ返事を返す。
『ショパンはいつか弾いてみたいけど、次の発表会では止めておくよ。難易度を下げて簡単な曲にしようかなって思ってる』
『例え、どんな曲を弾くことになっても、拓人くんのピアノに変わりないよ。楽しみにしてるね』
僕の未練を見透かしているような返事。
情けない自分を恥ずかしく思う反面、理解者がいてくれるという事実がなんだか嬉しかった。
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