仕立屋のマドンナ

3年前から鎮西の街に住み着き始めた寡婦の蘇小芳は、町内において右に出る者がいないといわれる程の器量良しである。

蓮の花弁よりも小さかろう三寸の小足でしとやかに往来をゆく様は蝶でも飛来したかの如く可憐で、前を見据える杏仁型の目のうちに輝く瞳は琥珀を埋め込んだかのよう。紅を差した口唇から発される声は小鳥の囀りにも似たいじらしさをしている。

小芳が勤め先である仕立屋に出向くと、用も無しに店を訪れる客が増える。小芳が店の裏で裁縫に打ち込もうものなら、わざわざ裏手に回って窓が開け放たれているかを確認しに来る者が増える。こういう連中は男女を問わず数多いるもので、みな小芳の美貌を拝めば満足して帰っていくが、男の中には小芳を口説いてみる者も少なからずいて、皆一様に小芳からあしらわれるか仕立屋の主人から追い払われるかされている。




「やあ、頼んでおいた羽織はできていますか」


気の滅入るような豪雨が街を襲った日、客も来ぬからと主人と小芳が茶を啜って他愛も無い話をしていると、文峰という男が舎弟に傘を差させてやって来た。

文峰は鎮西の街を牛耳る幇会の若頭で、店内で最も高価な緞子から流行の服を作らせるような上客であるが、同時にどこの誰よりもしつこく小芳を口説きにかかる厄介者でもある。受付台から身を乗り出して小芳を褒めそやしたかと思えば、己と結婚すれば働かずとも良いだとか、贅沢をさせてやるだとか、金持ちらしい傲慢な口説き文句を並べ立てて小芳からあしらわれる。そんな毎度の如く繰り返されるやり取りを前にして、仕立屋の主人も、小芳を想う他の町民も、文峰がいずれ幇会の権力に物を言わせて恐ろしいことをし出さないかと憂慮している。


「これは文の旦那様、羽織でしたら…」


腰を低くして文峰を出迎えようとする主人を小芳が制止した。そうして受付台の脇に備えていた赤い漆塗りのつづらから、臙脂色に染められた緞子の羽織を取り出してみせた。


「ああ、確かに。それにしても小芳さん、今日はやけに客入りが芳しくないようで」


「こんな大雨ですから、よほどお急ぎの方か物好きでないとお越しになりませんわ。旦那様はどちらかしら」


「そりゃあ勿論、前者ですよ。わたしゃ羽織の方も、貴女を妻に迎える準備も急いでおりますからね。して、そろそろ嫁に来る気になりましたか?」


「あぁ小芳、会計の方は儂がしておくから、お前は裏に…」


文峰のしつこい求婚が始まるなり主人は小芳を外へ逃がす為に2人の間に割って入ろうとしたが、主人の肩は小芳のほっそりとした手に掴まれて、後ろへ下がれと言わんばかりに軽く引っ張られた。その時、ほんの一瞬だけ主人へ向けられた小芳の目は至極迷惑そうで、主人は小芳の思惑こそ測りかねたものの、これ以上は介入してはならぬのだろうと裏へ引っ込んでしまった。


「小芳さんはよく分かってらっしゃる、こういう話は2人でじっくりとできた方が良いというものです。それで、どうなんです?」


主人の姿が無くなるなり嬉々とした顔を浮かべ、文峰は羽織を油紙で包む小芳の右手を掬い取るように掴んでみせた。小芳は声を出すでも眉根を寄せるでもなく、涼しげな両の目で掴まれた右手をしばし見下ろし、それから右へ左へと振ってみせたが、文峰の骨張った手が離れることは無く、胸の奥底から呆れを孕んだ重い溜息を吐いた。


「旦那様、お包みができませんわ」


「応えれば離して差し上げますよ」


「お応えは先日差し上げたハズですけれど」


文峰の悪戯っぽい笑い声が上がるのと同時に小芳の右手は離された。自由を取り戻したところで小芳は何事も無かったかのように淡々と油紙を扱い始める。


「そのお応えがいまだに信じられないもので、もう一度確かめに来たのですよ」


「ですから、旦那様のお嫁になるんですわ。ご自分で3年間も求婚し続けたくせに、何を信じられないと仰るのです」


「あまりにも街で噂が立たないと、夢だったんじゃないかと疑いますよ。さっきの調子だと店主にも話していないでしょう。貴女との結婚、信じて良いのですね?」


「ご心配なさらなくても店主にはのちのちしっかりお話ししますし、旦那様のもとに嫁ぐつもりで嫁入り道具も揃えております。本当にもう、他に可愛い生娘がいっぱいいましょうに、こんな寡婦にばかりかまけて」


桃の花にも似た丸みのある文峰の切れ目が妖しく笑むのを一瞥して、羽織を包んだ油紙に麻紐を巻く小芳の様子は平静を装っていたが、その声は徐々にか細くなり、小さな顔の両端に添えられた耳は淡い乙女色に染められた。

片やあからさまに、片や密かにしっとりと、互いを想い合う若い男女の視界の外では、文峰の舎弟が口を真一文字に引き結び、頬の緩みそうになるのを堪えていた。

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