深海の色彩

合沢一輪

第1話

 海の中を見てみよう。目を開けると海水が沁みて痛いけど気にしない。下を向いて進んでいくと、周囲の水が少しずつ重量感を増して、少しずつ視界が暗くなってくる。漂うホコリやスイスイと泳ぐ魚が見える。それらを無視して200m潜るとそこからが深海だ。まだ視界は真っ暗ではない。垂直に下に進んでいく。段々と濃くなる青色の世界を潜っていくと、水深1000mの中深海水層トワイライトゾーンを過ぎた。そこからは太陽の光は殆ど届かない。グラデーションの最果てだ。視界が真っ黒だと方向感覚が掴めない。それでも地球の中心に向かって進む。正しい方向に進んでいるのか、それも判断できないけれど。とてつもなく分厚い液体の壁を潜り続けた先、なぜか海底がハッキリと見えた。反射した光が眼球に入らないと物は見えない。海の底に太陽の光は届かない。つまり、海底が見えるということは、近くに発光している何かがあるということだ。発光しているもの。眼下に巨大な虹が見えた。輝く赤橙黃緑青藍紫。じっと観察すると、それぞれの光はごく小さな光がモニョモニョと不規則に動いてできている。虹に近づいてみると、それは鉱物で作られた建造物が並ぶ町のような場所で、光の粒の正体は二足歩行の生物だった。その生き物たちはそれぞれの色ごとに固まって暮らしているように見えるが、色以外の姿形は同じ生き物に見えた。そこは自分たちをイロと呼ぶ七色の生物が7つの国で暮らす世界だった。虹を隅々まで見渡すと、緑色の一隅に、そこだけ七色の点が円になって存在していた。



 「ここより上に行ってみないか?」

緑色に発光する生き物が、自分を囲む他の六色に向けて言った。

「塔に登りたいってこと?」

橙色の生物が遠くに見える細く高い石の塊を指差して言った。

「そうじゃない。塔なんかよりもっとずっと上。あの暗闇の向こうだ」

緑色は垂直に上を指した。

「上に何があるんだ?」

「どうやって行くんだ?」

「上に行ってどうするんだ?」

「そもそもここより上があるのか?」

赤黄青藍が次々と疑問の声を上げる。緑色が胸を張って叫んだ。

「それが気になるから行くんだ!」

周囲に弛緩した空気が流れた。

「いいんじゃない。とりあえず行くだけ行ってみても。どうせイロは暇なんだし」

紫色がいかにも適当といった雰囲気で賛同すると、他の5色もとりあえず緑色に従ってみるかという気になった。

「でもさ、どうやって行くか、は今解決しなきゃならないんじゃないの。泳いでいくの?」

「方法は用意してるんだ」

緑色は上を向くと、おーいと虹の隅々まで届きそうな大声で叫んだ。十数秒後、しゅーという水を切る音とともに、何かが緑色たちの傍にやってきた。その生き物は七色の横幅を全て合わせたよりも長い横幅と、七色の身長を全て合わせたよりも長い体長をしていて、全身に硬そうな鱗が生えた蛇のような生き物だった。

「コイツとはこの前散歩してた時に初めて会ったんだ。リューって言うんだって」

他の六色はいきなり表れた巨大な生き物に驚いて固まっていたが、いち早く立ち直った橙色が緑色に聞いた。

「それで、結局どうやって上に行くの?」

「コイツの鱗に捕まっていくんだ。リューはよく上に行ってて、浮上するのに慣れてるんだってよ」

「フジョー?なんだそれ」

「リューが言うにはな、今周りにあるのは水っていう物質で、ここからずーっと上に行くと、水がなくなって空気っていうのが満ちた場所に出るんだってよ。その空気がある場所まで上っていくことを浮上って言うらしい」

「水って何だ?周りにあるものって言われてもよくわからん」

「てかコイツ喋るのか?」

「とりあえずもういいだろ疑問は!大抵のことは実際に行ってみればわかるはずだ」

緑色は他の六色を無理やり押し切って、黙っているリューの鱗に手をかけさせた。彼らが抵抗しなかったのは、何だかんだ自分たちが住んでいる虹のはるか上空に何があるのか、興味を持ち始めていたからだ。七色が捕まるとリューは急激に上昇を始めた。下を見ると、虹が縮小していく。虹が細い線にしかみえなくなった頃、異変が起こった。七色の生物とリューの体が段々と膨らみ始めたからだ。

「おいおい、何が起こってるんだ?大丈夫なのかこれ」

「すげー!空気の中に出る前から面白いこと起きてるじゃん!上を目指してみてよかった!」

海の中を上昇することで水圧が弱まり、圧縮されていた体が開放され始め、巨大化していたが、彼らは理屈は分かっていなかった。彼らが驚きを口にしている内に、水深が1000mを切った。太陽の光が海の中に届くようになった。世界が一変した。イロたちは自分たちが発するもの以外の光を始めてみた。こんな世界があったのか、と七色は口々に言った。海中のホコリやプランクトンに太陽光が反射して、キラキラと輝いた。彼らにとっては黒色が当たり前だった周囲の水も、青色に見えた。

「おいアオ、お前いなくなったのかと思ったよ」

青色と藍色は周りと同化しているように見えた。最初は藍色が海水と重なって見えなくなり、次が青色。海の色はどんどん薄くなり、ついに彼らは水の壁を超え、海面に顔を出した。そこには無限に広がる眩しい世界があった。

「これがミドリが言っていた水ってやつ?」

七色はしばらくポカンとしていたが、紫色が自分たちが浸かっている液体を手に掬っているのを見て、やっと話す余裕が生まれた。

「これが水……。俺ら、ずっとこの無限の水の中で暮らしてきたんだな」

「おい、あの光ってるのは何だ!?俺たちの仲間か?」

太陽を見てそう発言するものもいた。

「この周りにあるもの、って言っても見えないし触れないけど、これが水の代わりにある空気ってやつなのか?」

「ずっと向こうに岩があるぞ!ここから見てあの大きさなら、近くにいけばとんでもないサイズだ!」

そんな風に自分たちが驚いたものを次々に口に出していると、七色はリューの鱗に生き物が一つくっついているのに気づいた。その生き物の姿は、輪郭だけを見ると大きさも形も海底にいた時のイロたちに近かったが、水圧から解放された七色から見ると指の先くらいのサイズだった。植物を編み込んだものをまとった弾力のある肌のその生物は人間といった。海底で暮らしていたイロたちが人間を見るのはもちろん初めてだった。

「おい何だこれは!」

「見たことない生き物がいるぞ!」

「俺たちにちょっと似てる?」

「上にはこんな魚がいるのか?」

イロたちがそれぞれ驚きを表現したところで、人間が何やら声を発したが、イロたちには何を言っているのか全くわからなかった。と思いきや、緑色が思わぬ能力を発揮した。

「あなたたちは何ですか。助けてください。食べないでください、って言ってるな。ん?リューが言うには、これと同じ生き物が向こうのでかい岩の上にいっぱい住んでいるらしいぞ」

「おいミドリ、なんでこれの言っていることがわかるんだよ。それにリューは何も話してねえぞ」

「え?分かるだろ何となく」

どうやら緑色には他の生物と意思疎通する力があるようだった。

「よくわからない生き物を取って食ったりしねーよ。ところでお前は一体何なんだ?」

「ふむふむ、向こうの島?の上に住んでるニンゲンだってよ。て、それはさっきリューが言ってたな」

「俺たちは自分のことイロって呼んでる生き物だ。俺がアカ。こいつらは順番にミドリ、アオ、キ、ダイダイ、ムラサキ、アイだ。この長いやつはリュー。リューとは今日初めて会ったんだけどな」

「自分は魚を捕りに船?で海に出てきたけど、俺らが急に出てきて船が壊れちまったんだとよ。自分が住んでる島まで返してくれないかって言ってるぞ」

「船ってのはよく分からないけど、何だか迷惑をかけたみたいだな。ミドリ、リューにあのでかい岩まで泳ぐように言ってくれるか」

リューは視界に映る島に向かって泳ぎ始めた。紫色は人間が魚を捕り損ねたことを不憫に思って、魚を捕ってやった。体が膨らんでいたので、手を水中にいれて適当に握るだけで大量の魚を捕ることができた。彼らが島の岸に着くと、そこには大量の人間が集まっていた。人間は皆恐怖と畏怖が混ざりあった表情を浮かべていた。緑色は人間を手に乗せて島の土の上に下ろしてやった。紫色が島に手を伸ばすと、集まった人間たちは水が引くように後ろに逃げた。紫色はそこに捕った魚を置いてやった。

「ねえ、上に来るのに大した時間はかからなかったし、今日はもう国に帰らない。何だか疲れたよ」

紫色の発言に他の六色も賛同した。彼らは今もリューの鱗にしがみついたままだったので、はたから見ると絵面は少し滑稽だったが、岸の人間たちからは7人の発光する巨人が会話しているようにしか見えないので、良性の感情は浮かばなかった。

「ニンゲンさんたち、また気が向いたら来るぜ。その魚は船とやらを壊してしまった礼だ、とこのムラサキは言っている。じゃあな」

緑色の言葉は何故かその場にいる人間全員に理解できた。リューとイロたちは海に潜っていった。しばらくはイロが発する光が見えていたが、それも段々と小さく弱くなっていった。人間たちは今も状況を理解できないでいたが、やがて1人が岸に置かれた魚を手に取ると、皆が一匹ずつ魚を抱き、おずおずと帰っていった。最後に残ったのは海上でイロたちに出会った人間だ。その人間は足元に生える草を見て言った。

「これは……あの方々の1人と同じ……同じに見える。たしか……イロ。ミドリのイロだ」

これは色が色と呼ばれるようになったきっかけとも、巨人伝説、竜伝説の始まりとも言われる噂話だ。

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