クリストファーの過去

 オフィーリアが贄姫としてクリストファーの城にやって来て数ヶ月の時が経過した。最近になり、2人の関係は少し変化しつつある。

 先日、書斎での出来事にて。

 オフィーリアとクリストファーは同じ本を探していた。

(えっと……あの本は確かこの辺に……あったわ!)

 オフィーリアが目的の本に手を伸ばすと、クリストファーの手と重なった。

「あ……」

「すまない」

 お互い、重なった手を慌てて引っ込める。2人共、ほんのり顔が赤くなっていた。

 オフィーリアもクリストファーも、お互いのことを異性として意識するようになったのだ。

 しかし……。

「オフィーリア、お前が先に読んでいい。俺はもう戻る」

 クリストファーは少し素っ気ない様子ですぐに書斎を後にしてしまった。

「……ありがとうございます」

 オフィーリアはクリストファーの後ろ姿に向かってポツリとお礼を言う。その表情は少し寂しそうである。

(クリストファー様……以前はもっと親しく話せていたのの……)

 オフィーリアは軽くため息をついた。銀色の目からは寂しさがうかがえる。

 最近のクリストファーは、どことなくオフィーリアを避けているような感じがするのである。


 そんなある日、クリストファーが熱を出して倒れた。

「クリストファー様は最近ヴァンパイア同士であったり、ヴァンパイアと人間の間で起こったトラブルの対処に追われておりましたので……疲れが溜まったのでしょう。ですが、命に関わるものではないのでご安心ください」

 クリストファーの部屋から出て来たイーサンは困ったように微笑みそう言う。

「そう……ですか」

 オフィーリアはそれでも少し心配そうである。

「あの、日が出ている時間は私がクリストファー様の看病をしてもいいですか? ずっと付ききりだとイーサンも休めないでしょうし」

 意を決したような表情のオフィーリア。銀色の目は真剣だった。イーサンは安心したように眉を下げて微笑む。

「ありがとうございます、オフィーリア様。是非、お願いいたします。クリストファー様も、その方がお喜びになると存じます」

「クリストファー様が……喜ぶ……? 最近は避けられている気がするので、ご迷惑の間違いでは?」

 オフィーリアは困惑した笑みを浮かべる。

「いいえ、オフィーリア様のことをご迷惑だなんて、クリストファー様が思うはずがございませんよ」

 イーサンは優しく緑の目を細める。まるで孫に向けるような笑みである。

「そう……だと良いのですが」

 オフィーリアは自信なさげに微笑んだ。






◇◇◇◇






 翌日の昼間。

 オフィーリアはそっとクリストファーの私室に入る。ヴァンパイアは日光が苦手なのでカーテンが閉められており、薄暗い部屋だ。クリストファーは少し苦しそうだが眠っていた。オフィーリアは熱を下げる為にクリストファーの額に乗せてあるタオルを取る。すると、漆黒の髪がハラリと垂れる。タオルはすっかり生暖かくなっていた。

(……まだ少し熱はあるわね)

 オフィーリアはクリストファーの額に触れて体温を確認した。そして母の形見であるハンカチを取り出す。

(お母様、どうかクリストファー様の体調を治してください)

 オフィーリアはハンカチでクリストファーの汗をそっと拭く。

「ん……ビーチェ……」

 その時、クリストファーが掠れた声で呟いた。寝言である。

(ビーチェ様……? 一体どなたかしら?)

 聞いたことのない名前に、オフィーリアは動揺してしまう。その時、後ろにあったチェストに手が当たり、並べてあった本の1冊がパタンと倒れた。オフィーリアは慌てて本を直す。

 音で目が覚めたのか、クリストファーの金色の目は薄く開かれ、ぼんやりとオフィーリアを見つめている。

「申し訳ございません、クリストファー様。まだ昼間なのに起こしてしまいましたね」

 オフィーリアは申し訳なさそうに微笑む。

「オフィー……リアか」

 ゆっくりと覚醒するクリストファー。体を起こそうとするが、「ご無理をなさらないでください」とオフィーリアに止められる。

「お前が看病してくれたのか」

「少しだけですが。いつもはイーサンが」

 オフィーリアは控え目に微笑む。

「ありがとう」

 クリストファーはフッと表情を綻ばせる。オフィーリアの胸の中に、じんわりと温かいものが広がる。

「タオルを変えますね」

 オフィーリアは柔らかな笑みを浮かべた。氷水に浸した新しいタオルを絞り、クリストファーの額に乗せる。彼の唇から零れる牙は、心なしかいつもより鋭さがないように見えた。


『ん……ビーチェ……』


(ビーチェ様……名前からして女性よね……? クリストファー様のお知り合いかしら? それとも……)

 オフィーリアは先程のクリストファーの寝言が気になってしまった。ほんの少し複雑な感情が生まれる。

「あの、クリストファー様は……」

 そこで口篭る。知りたい、だけど知りたくない。知るのが怖い。そんな相反する感情のオフィーリア。

「何だ?」

 怪訝そうな表情のクリストファー。二の足を踏んでいたオフィーリアは意を決して聞いてみる。

「クリストファー様は先程寝言で……ビーチェと呟いておりました。ビーチェ様とは……どういったご関係なのでしょうか?」

 するとクリストファーは目を見開く。

「彼女の名前を呟いていたのか……!」

 少しの間、沈黙が流れる。そしてクリストファーはゆっくりと静かに話し始めた。

「ビーチェは……俺が初めて愛した女だ」

「そう……ですか……」

 オフィーリアの表情が曇る。モヤモヤとした感情が雨雲のように広がるのが自分でも分かってしまう。

「ビーチェは愛称で、本名はベアトリーチェ・サフィール。サフィール帝国の第4皇女で、俺が初めて迎えた贄姫だった」

 懐かしむような表情のクリストファー。

(サフィール帝国……確かディアマン王国とアメーティスト王国に隣接している国……)

 モヤモヤした初めての感情に戸惑いつつも、オフィーリアは黙って話を聞くことにした。

「彼女は……明るくよく笑う奴だった」

(私とは正反対ね……)

「だが、やはり人間の寿命はヴァンパイアよりも遥かに短い。……ビーチェはあっという間に歳を取り、寿命を迎えた。俺が十分じゅうぶんに何もしてやれないまま」

 切なげにため息をつくクリストファー。オフィーリアは持っていた母の形見のハンカチをギュッと握る。

「その時は……心が空っぽになって涙すら出ない程の悲しみに襲われた。だから俺はもう2度と人間には興味を持たないようにしていた。あんな悲しみを2度と味わいたくなかったからな。だが……オフィーリア、お前が贄姫としてこの城に来てから変わった」

 クリストファーは真っ直ぐオフィーリアを見て口元を綻ばせる。

「え……?」

 戸惑うオフィーリアをよそに、クリストファーはゆっくりと体を起こす。

「オフィーリア、さっきそのハンカチで俺の汗を拭いてくれただろう? 眠っていて意識は曖昧だったが、優しい感触は覚えている。母親の形見なのにも関わらず、お前は躊躇わずにそれで俺の汗を拭いてくれたんだな。ありがとう」

 クリストファーは金色の目を優しく細めた。

「いえ、そんな……私は当たり前のことを」

「だとしても、嬉しいと思った」

 クリストファーはフッと笑う。オフィーリアの心臓はトクンと跳ねた。

「オフィーリアはビーチェとは正反対の性格だが、律儀で真っ直ぐな所は同じだ。最初はお前のそういう所に興味を持った。それからお前と接するうちに……お前のことを……好きになった。オフィーリアが封印していた俺の感情を開いたんだ」

 クリストファーの金色の目は、真っ直ぐオフィーリアを見据えている。

「そんな……クリストファー様、きっと熱に浮かされてそのようなことを仰っているのですよね」

 最近はクリストファーから避けられていたので、そんな都合の良い話はないと思うオフィーリア。何とか必死に煩い心臓を落ち着かせようとしている。

「違う。確かにまだ熱はあるが、思考は正常だ。……俺はオフィーリアを愛している」

 クリストファーは真っ直ぐオフィーリアを見つめている。オフィーリアの銀色の目からは、ポロポロと涙が零れ落ちる。

「オフィーリア……そんなに嫌だったか?」

 肩を落とすクリストファーに対し、オフィーリアは首を横に振る。

「違うんです。色々な感情がごちゃ混ぜになって……」

 オフィーリアは今まで感じていたことをゆっくりと話し始める。

「私は、お母様が亡くなって以来、誰かに愛されることを諦めていました。でも贄姫としてクリストファー様の元へ来てからの生活は、穏やかで幸せで……ずっとこの生活が続いたらと願ってしまう程。それに……私も、クリストファー様の優しさに触れて、どんどん貴方のことを……好きになっていたのです」

 オフィーリアは真っ直ぐクリストファーを見つめる。

「本当……なのか……!?」

 クリストファーは少し嬉しそうに金色の目を細めた。しかし、ここでオフィーリアはクリストファーから目を逸らす。

「はい。でも……最近は避けられて悲しかったですし、ベアトリーチェ様のことを聞いて……嫌な感情を持ってしまいました。……嫉妬ですね」

 オフィーリアは初めて抱いたモヤモヤした感情が嫉妬だと気付いたのだ。

「オフィーリアの嫉妬か。悪くないな」

 フッと微笑み、クリストファーは自身の指でオフィーリアの涙を拭った。

「安心しろオフィーリア。ベアトリーチェのことは、お前にとってはもう何十年も前……それこそ、お前の祖父母世代が生まれた頃の話だ」

「そんなに前なのですか……!?」

 オフィーリアは驚愕して銀色の目を見開いた。

「でしたら……クリストファー様は何年生きていらっしゃるのでしょうか……?」

 恐る恐る聞いてみるオフィーリア。

「さあな。でも、まだ100年は生きていない。ヴァンパイアの中でもまだまだ若い方だ。イーサンは俺の数倍は生きている」

 悪戯っぽく笑うクリストファー。唇から零れる牙は、先程よりも少し鋭くなったような気がした。

「そんなにも……」

 オフィーリアは言葉を失う。目の前にいるクリストファーは自分よりも少し年上くらいにしか見えない。

 クリストファーは切なげな表情でオフィーリアを見つめる。

「オフィーリア、俺はお前を愛している」

 クリストファーはオフィーリアを抱き締めた。

「だから……なるべく長生きして欲しい」

 人間とヴァンパイアは生きる時間が違う。ゆえに、オフィーリアの方が必ず先に寿命が来てしまう。

 クリストファーはオフィーリアを抱き締める力を強めた。オフィーリアはそっとクリストファーを抱き返す。

「私も、クリストファー様を愛しています。だから、なるべく長い時間、貴方の側にいたいと思っています。たとえ私が、皺だらけの老婆になったとしても」

「約束だぞ、オフィーリア」

「ええ」

 すると、クリストファーから抱き締められる力が弱まる。そしてゆっくりとクリストファーの顔が近付いて来て、2人の唇が重なった。

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