第8話【多少の紆余曲折、かくかくしかじかのこと】
その〝転機〟とはこういうものだ。ある日突然わたしの部屋に〝妖怪濡れ女〟が現れた。異装を身にまとい全身がびしょ濡れ。もちろんわたしも或る意味〝濡れ女〟だけどそれはあくまで然るべきところが一部だけ。
しかしすごく怪しいこのオバさんはだって全身濡れているんだから『妖怪濡れ女』と、そう言うしかない。
でも29のわたしが〝オバさん〟なんて思っちゃったけど、侮れなかった。正直なところ顔だけはオバさんなのに妙なモヤモヤを感じた。びしょ濡れのせいで身体のラインがあまりに露わになってしまって、〝なぜに年の割にこれほどなまめかしいのか〟と。
かといって全体として〝下品〟というわけではない。床を引きずるような長いスカートをはいていて、それは中世欧州を舞台にした演劇の衣装みたいな服で、わたしもこんな服、昔着たことがある。こうした出で立ちだから全身ずぶ濡れなのにどこか品を漂わせている。
妖怪濡れ女はわたしに告げた。「こことは別の世界で侍従を務めています」と。
じじゅう? 侍従か?
〝わたし然るべき地位にいます〟と自己アピールされてるよう。
しかしわたしの内心での『妖怪濡れ女』の呼称は不変だった。突然現れわたしの部屋の床をびしゃびしゃにしてしまったのだから迷惑千万。
部屋の中には既に水たまり。既に手遅れだけどそれでも慌てて浴室へと押し出し、かくして浴室で女同士ふたりで語り合う(もちろんわたしは服は着たままなんだからっ)という極めて奇妙な有り様になった。
いの一番の率直な疑問点として『どこからわたしの部屋に侵入してきたのか』と、そこを問い糾したらまさにこの場所。このお風呂場のバスタブの中からだという。その水面にさざ波一つ立たず鏡のようになったタイミングでこっちの世界への扉が開くのだという。
どうひいき目にみてもこの姿もこの言動も怪しさ満点としか言い様がなかったが、この妖怪濡れ女さんは突然わたしの中で〝さん付け〟となった。
突然にびしょ濡れの変質者が部屋の中に現れたらたとえ同性であろうとただちに〝通報案件〟だけど、このオバさんは福音の使者だった。29歳のわたしに『縁談』を持ってきてくれたんだ。
たったこれだけで『話しを聞こうか、』になってしまった29歳という歳が悲しい。『ようやくわたしの元へと舞い込んできた♪』と思ってしまったことに。
一方で自己嫌悪にもなったその時は、〝あまりにも突拍子もないことが起こったとき、人は悲鳴もあげられないものなのだ〟と思うことにして強引に自身を納得させた。
なにせ『縁談』だ。わたしはもうこの時『縁談』を反射的に断れる身分ではない。29に『恋』はもう難しい。その相手が結婚していたらたちどころにそれは『不倫』に。とはいってもわたしにはそんな浮いた話しは無いのだけれど。
それに『恋』ではなく『縁談』なら相手の肩書きを最初から堂々と確かめられる。学生時代、それも高校生以前で『ピュアな恋』が成り立ちやすいのは既に相手の肩書きが分かっていて(たいてい同じ学校・同じクラスだし)、将来の年収などこの頃はどこ吹く風、それが〝若さ〟というもの! それにだいいち見当がつかない。でも高三くらいになるとドコ大学を受験するかで将来性はほの見えるけど。
妖怪濡れ女さんの持ってきた縁談相手のその〝肩書き〟は将来『王』となる『王子』だという。
さて、『異世界からなぜわたしなんかのところに縁談が?』という疑問は当然湧いてきた。そこを訊いてみると異世界なのに極めて生物学的な話しをされた。
要するに王家が限られた範囲で嫁取りを繰り返した結果血が近くなり、事実上近親婚のような血の濃い相手との結婚にどうしてもなると、その場合生まれてくる跡継ぎが、ことばは悪いけど健康優良児ではなくなってしまう。そこでいわゆる閨閥もなにも関係無い異世界から嫁をとることになり、なんかわたしが選ばれたと。
わたしの結婚相手が、婚活なんてしなくても向こうから現れてくれた!
王子サマがこのわたしを、いまもう29になってしまったわたしをお嫁さんに迎えてくれると、そういう話しを持ってこの濡れ女さんがやって来たっ! もうこの際理由なんてどうでもいいっ!
白馬の王子サマ!(白馬、乗ってるかどうか分からないけど) とにかくまるで絵に描いたようなシンデレラ・ストーリー!
——とは素直に思えなかった。『う〜ん、なんとも怪しい』と思ってしまった。というのも決断の前に、一番(かどうかはべつにしても)大事な資料を一切提示されないことがやけに気になったからだ。
一応こんなわたしにわざわざ異世界から『縁談』を持ってきた方という〝敬意〟だけは維持しつつも率直な疑問点をぶつけてみた。『お写真はないのですか?』と。
べつにイケメン限定っ、などと高飛車なことを言うつもりはないけれど、っていうかイケメンの態度に頭に来た経験があるけど、ふつう結婚相手がどんな顔か、確認くらいしてから結婚するものよね。
「〝しゃしん〟? なんですそれは」妖怪濡れ女さんから戻ってきた返事がこれだった。
まるでわたしの知ることのない大昔に戻ったかのような感覚に陥った。
『お顔も知らない
しかしわたしは既に薄汚れていた。女が十代のうちに結婚相手を見つけられなかったという時点で『顔>経済力』ではなく『経済力>顔』になるのだと。
肩書きが〝王子サマ〟なら並以上の経済力は、あるはず——
それに『若さ』や『顔』の確認手段が写真なら、お相手の写真が無くても理不尽なようでわたしにとっては理不尽とも言い難い。『写真』というものが無い世界ではこのわたしの姿も相手には分からない。わたしははっきり言って容姿に自信など無い。それで〝結婚できる〟というならまったく渡っていく船じゃないっ。
——と思いつつこれって『国際ロマンス詐欺』じゃない? との考えも頭をよぎった。しかし全身びしょ濡れになった使いがいきなり現れるというあまりに非日常性がその可能性に囚われた思考を打ち消した。
しかしまた別に即座に気になり頭に浮かんだことがひとつ。なにしろ相手は『異世界』だ。……よもや、〝一夫多妻制じゃないでしょうね?〟と。
そこのところを妖怪濡れ女さんに確認してみると「多妻ではないが〝跡継ぎ〟のことがどうしても関わってくるため、結果的に多妻状態になることはあり得る」とのこと。
なにそれっ! 愛人っ⁈ じゃなくて『側室』というのか、そういうのがアリなのか。
いや、でもこれって捉えようによっては最初から真実を告げていてくれてるっぽい。逆にこれで妖怪濡れ女さんを信用してみようという気が起きてしまった。
王子サマのところにお嫁さんに行くとなれば仕事なんてキャンセルカルチャー。すぐ辞めるに限るっ。
近頃『ぽりこれ』とかいう価値観が横行し〝女は自立し働かなければならない〟とか、これが大手を振って歩いてる。でもこれって〝脅迫〟になっているよね。こんな謎文化はキャンセルしてやるんだから。
重要なのは『自立』よりも『自律』よね。
わたしは他の人間たちからの支配は受けない。じぶんの行動をじぶんの立てた規律に従って正しく規制するんだから。
わたしは決して自己の欲望や他者の命令なんかに依存しない。自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うことに決めているんだから。そうカント先生も言ってた。
も、もちろん『結婚』は欲望なんかじゃない。もっとそれは神聖なるもの。欲望とは『性欲』のこと。結婚した特典で性欲が満たされるのはべつに〝自己の欲望〟に負けたわけじゃないんだからねっ。
しかしふとまたもうひとつ、どうしても外してはおけないことが頭に浮かんだ。
異世界って、〝行ったきりそれっきり〟になるのかどうか。
わたしは両親に結婚相手を紹介するというイベントは絶対にやっておきたかった。
『わたしにも自力でこんなことができるんだ!』と両親に証明したい——
それに〝跡継ぎの話〟を聞いたばかりなのにわたしには根拠の無い自信があった。〝まだ20代だ〟と。もちろん赤ちゃんが生まれたら当然両親に見せに行くつもりが満々ある。
そこのところを妖怪濡れ女さんに訊いてみると「可能です」と言う。
この〝里帰り〟の話しについてだけは、あまりに調子のいい返事に若干〝騙されているのかもしれない〟という気がしなくもなかったが、結局信用できてしまった。というのも、この妖怪濡れ女さんが実に厳しいコトを言ってくれたからだ。
妖怪濡れ女さんは〝諫言〟してきた。決してそれは〝甘言〟ではなかった。同じ〝かんげん〟でも。
妖怪濡れ女さんは宮中に仕える高位の女官であるらしかったが、こちらとしては『証明してくれ』はヤボ過ぎる。得体の知れない身分証明証を見せられてもどう信じていいのやらだ。
わたしの〝信じてみる気になったきっかけ〟はこうだった。
「この婚姻をよく思わない者が少なからずいます。そういう者たちはきっとあなたを追い出そうとするでしょう」と。
えっ、追い出してくれるんだ? それってつまり〝帰れる〟ってことじゃん!
そして厳しいことはもう一つ。
「少しお痩せになってはくれませんか?」と妖怪濡れ女さんに言われてしまった。
現代社会人が言ったら完全なハラスメントでその地位を一瞬にして失いかねないけど、そこは異世界感覚なんだろうなぁ、と思った。
しかし話しの続きはあまりに合理的すぎた。
「この婚姻を潰そうとする者たちはあなたの容姿を見て『殿下がおかわいそうだ』と言うに違いありません」
なにそれっ、あまりに非道いっ!
あれ、でも……、と疑問が湧いた。そこを率直に訊いてみた。
「ならなんでわたしが選ばれたんでしょう?」と。
「殿下があなたのお顔を気に入られたからです」と、あまりに身も蓋もないことばを口にした。
?
「写真が無いはずなのにどうしてわたしの顔が?……」分かってしまったのかと当然の疑問が衝いて出た。せっかく〝選ばれた〟のに口に出てしまった。
「肖像画をわたしが描きました」
「え? それわたし? わたしの絵なの?」
「左様です、ご神託が『あなたと』と降ったのですが、王太子殿下におかれてはご納得の様子無く、それでしかたなくわたしが描かせていただきました」
「いつの間にわたしの顔を?」
「あなたがここで湯浴するとき顔が水面に映る瞬間があります。その時のお顔を記憶し肖像画として仕上げた次第です」
それって〝覗き〟だよね。29歳の女の裸をそれよりも上なオバさんが覗くというのもアレだけど……、でもまあそれで結婚が決まったのなら——
「よほど美化して描いていただいたんですね、ありがとうございます」と〝お礼〟が口から出た。
しかし妖怪濡れ女さんはにこりともせず、「ありのままを描いただけですから」と。
え? お風呂場でありのまま?
「描いたの顔だけですよねっ?」
「当たり前です。あなたの裸など」
あぁ、よかった。そりゃそうよね、と思いつつも相手は異世界だから。
しかし王子様も思いっきし〝男〟だなぁ。ポリコレ勢が聞いたら卒倒して倒れそうなことを実にあっさり妖怪濡れ女さんは伝えてくれた。スゴい。『女性の内面がどーとか』という話しが清々しいほどに出てこない。
だけどたとえ美化して描いた肖像画だろうとわたしの顔が男性に気に入られたってのはすごくすごく悪い気はしない。たぶんこれで舞い上がってしまったのだろう。かくしてわたしは誰にも相談せずに単独で決断してしまった。
「行きましょう」と。
しかし、妖怪濡れ女さんからは〝説得に成功した〟という達成感が伝わってこない。無表情で言った。
「描いたのは顔だけということは身体の方については分からないということです」
「嫌だなあ、わたし正真正銘の女ですよ」
「まだ解りませんか? その体型を少しどうにかして欲しいと言っているのです」
「……べつに痩せなくても、」と不満がつい。
「ダメです」とにべもなく妖怪濡れ女さんはぴしゃり。「——これが〝顔〟ならわたしはなにも言いません。しかし体型なら別です。周囲の者を納得させるには見栄えは少しでもいいに越したことはありません。むしろこのままわたしどもの世界に来られても〝周囲の者の言うことに耳を貸さず〟などとあなたの評価が定着してしまいかねません。そうなればこの後たいへんになります」
〝周囲〟かぁ。これって祝福される結婚じゃないのかも。でも——
「解りました。きっと痩せます」と力強く応じた。なんてたってわたしは29だ。痩せることでつけ込む隙が無くなるなら。この結婚の破綻は、許されない。
「では一月後に」
「はやっ、いえ。早すぎます! そんな短期間で体重を落としきるのはっ、」
とは言っても言った直後に自覚した。一年間の猶予をもらっちゃったらわたし30だ、と。やるなら急がねば。
「落としきらなくて結構。それなりの努力だけで。痩せすぎれば今度はお顔が変わります。あまりに容姿が変わられても今度は殿下のお気持ちの方が気になりますから」と妖怪濡れ女さん。
けっこう難しい案配だな……
「じゃあ上手くやります!」と快諾。
「ではよろしくお願いしますね」
わたしは痺れるような気持ちを反芻する。
嫁に行った先では周囲の理解は無さそう。でも男の
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