第20話 他人事の受験日

 その日は雪がちらほらとして眩しかった。

「おはよう、尚弥」

「ん」

「ん、じゃなくて、ちゃんとおはようって返すんだよ」

「……おはよ、おにい」

 顔を上げると、いつも通り、髪をしっかり整えて、制服も着崩すことなく着用している兄。相変わらず学ランが似合わなくて笑える。

 あたしはまだ寝間着姿だ。朝六時である。今日は部活の朝練はない。兄とはいえ、異性相手であることを、そろそろ意識した方がいいんだろうか、と頭はとりとめのないことを考えて、兄に髪を好きにさせる。

 高校に入ったら、兄と時間が合うこともなくなって、こうした朝の髪を整える時間もなくなるのだろうか、とふと思った。兄にやってもらわなくたって、あたしもさすがに中学生、自分の身支度くらい、自分で整えられる。

「はい、今日もできた」

 兄の飾り編みは秒だった。好きも極めるとすごいな。

「今日は体調良さそうだね」

「そりゃあね。受験の日だもん」

 今日、兄は高校受験に行く。美青姉も一緒だ。

 目的通り、飛鳥野高校を一般受験することになったらしい。教師にもわーわー言われたらしいが、兄は志望動機もないのに面接のある推薦入学は受けられないし、他の学校に魅力を感じない、と断言したそうだ。兄にしてはかなりよくやった方なのではないだろうか。

 親にはあたしから無言の圧をかけておいた。何かあれば、「おにいが倒れたとき、救急車も呼ぼうとしなかったくせに親面してんじゃねえよ」と釘を刺した。この釘は思いの外効果があるので、今後も積極的に使っていきたい。

 一応、親なりに兄への対応について後ろめたさはあるらしいから、毒親は毒親でも、まだましなのかもしれない。いや、そもそも毒なんて一ミリもない方がいいが。

 あたしはというと、三年生が受験だろうと、学校はある。計画性のない理科担当教師が一年間の指導範囲が間に合わないと超絶に焦っていたり、逆に早く終わりすぎた国語で暇をもてあましたりと、そこそこ愉快でありつつも普通の日常を送っている。

 受験ハイのお馬鹿な連中も、試験当日が近づくほどに増していく三年生の緊張感になりを潜め、静かになった。さすがに人生を決める大一番に水を射すほど馬鹿ではなかったらしい。

 ただ、三年生の緊張感に充てられて、人に当たり散らす輩もちらほら出た。そういうのを締める輩も出て、治安はぼちぼちといった感じだ。

「じゃあ、今日は美青姉と一緒に頑張ってきてね」

「うん」

 そんな穏やかなただの朝だった。


「島﨑!!」

 昼休みまで、呑気をしていたら、急に担任が教室に入ってきた。教室に入るなり、あたしの方へつかつかと歩み寄ってくる。あたしの金髪は目立つから、判断を下さなくとも、すぐわかるのだ。

 担任の剣幕がただ事じゃないので、あたしは思わず身構える。生徒指導されるようなことをした覚えは微塵もないが。

 と思ったら、担任の口から出たのは意外な言葉だった。

「島崎、飛鳥野に受験に行ったお兄さんが倒れたらしい」

「え」

 周囲もざわっとする。あたしの兄を知らないやつはいない。主に女子たちがどうしたんだろ、心配ね、と囁き合い始めた。

 あたしはあたしで動揺していた。薄氷の上に立っている気分だ。何か間違えたら、底が抜けて、どこまでもどこまでも落ちていきそうな、仄暗さと冷たさが、足元から這い上がってくるような気がした。

「兄が倒れた……? どこから、どういう連絡ですか……?」

「飛鳥野高校から、うちの学校に連絡が来た。お兄さんは救急車で運ばれたわけではないが、親御さんに連絡がつかないらしくてな」

 またかよ、とあたしは悪態が出そうになった。あの馬鹿親共はこういう肝心なときに機能しない。いや、機能したとして、あたしにお鉢が回ってくるのがオチだ。

 あたしはスマホの電源をつける。すると、親からは一件も着信がない代わりに、数件の着信が入っていた。

「……美青姉?」

 その名前に、あたしはなんだか不穏なものを感じる。着信の時間は明らかに試験中の時間だ。美青姉も兄と同じく飛鳥野を受験していたから心配してついていてくれたのかもしれない。……なんてのは、甘い考えだ。

 普通、兄が倒れただけなら、担当の教師がついて、運んでくれるだろう。何せ今日は高校受験である。友人と言えど、他人は他人。受験生が試験を放り出すのは普通なら、あり得ない。

 試験中にスマホや携帯電話等を使おうものなら、即失格になることは受験の当事者である美青姉たちの方がよく知っているはずだ。耳にたこができるよ、と美青姉が愚痴っていたのを思い出す。

 まさか、美青姉にも何か?

 そわり、と胸が疼いて、あたしは口を塞いだ。刹那の間だけ、あたしを襲った吐き気が通りすぎると、あたしは担任を見る。

「兄と一緒に試験に行った友人から連絡が来ています。まずそっちに確認しても?」

「色埜か?」

「はい」

 担任はあたしたち三人がよく一緒にいることを把握しているらしく、特に穿って聞かず、頷いた。

 あたしは美青姉に電話をかける。電話のコール音が、永遠に続くような凍えた感覚があたしの指先を悴ませた。

 何コール目だろう。そんなに経ってはいないはずだけれど、美青姉が出るまでの間をあたしは永劫のように感じていた。

「……なおちゃん?」

「美青姉! どうしたの? 大丈夫?」

 美青姉の力ないか細い声を聞いて、あたしの中から心配が溢れ出す。美青姉は溌剌としていて、ポジティブで、いつも笑顔で、兄妹共々根暗いあたしたちをいつも支えてくれているから、それだけでただ事じゃないのを確信した。

 けれど、あたしの声がまるで、届いていないみたいに、美青姉が慟哭する。

「なおちゃん、なおちゃん! なおちゃ、っなお、ううっなおちゃん、なお、なおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなおちゃんなお、ちゃん……香折、ちゃんが、香折ちゃんが、あ、ぁぁぁ……香折ちゃん……香折ちゃん……私の、私のせい……私のせいで……」

「……美青姉?」

 美青姉がこんなに動揺しているのは初めてで、あたしは倒れたという兄より、美青姉のことが心配になった。

 普段は明るい美青姉の明るい分、強く出た翳りが怖くて仕方がない。

「美青姉、美青姉!」

「おい、色埜がどうかしたのか?」

 あたしの顔色と声色から異常を感じ取ったらしい担任が、あたしの肩を揺さぶる。あたしははっとして、担任にスマホを差し出した。

「美青姉……色埜先輩の様子がおかしくて。コミュニケーションが……上手く……」

「わかった。代わろう」

 担任があたしからスマホを受け取り、もしもし、と声をかける。

 あたしは不安で仕方なかった。いつも以上に動揺していた。そうでなきゃ、名前もちゃんと覚えていない担任にスマホを渡したり、美青姉のことを任せたりしない。

 脈拍が早いのを感じて、一つ息を飲んでから、深呼吸を一つする。頭の中の思考を全部吐き出すように。

 兄が倒れたのも心配だが、それ以上に美青姉が心配だ。一体、何があったのだろう? 美青姉は「私のせいで」と言っていたけれど、美青姉が露悪的なことをしないのはあたしがよく知っている。明るく、朗らかて、時に鋭いことを言うけれど、兄の繊細さに合わせられるしなやかな人だ。

 そんな人が自責の念に囚われるなんて、何があったというんだろう。

「島﨑、ありがとう。電話は切れてる。飛鳥野のスクールカウンセラーと養護教諭が色埜についてくれたみたいだ。少し、錯乱しているらしい」

「美青姉は大丈夫……じゃないですよね……」

「残念ながら。まあ、今回は色埜にもお兄さんにも大人がついてるから、島﨑は安心して午後の授業を受けろ。心配なら、先生が飛鳥野の先生と連絡取るから」

「ありがとうございます。お願いします……」

 大人に頼る、という行為を初めて素直にした気がした。頭を下げるあたしに、担任は気軽にぽんぽん、と柔らかく撫でる所作をした。

 剽軽で、信用とはかけ離れている担任が、頼りになる大人みたいに思えて、あたしは失笑する。あたしはあたしで、かなり精神がヤバいみたいだ。

 毒親が絡むことはなくて済みそうだが、美青姉の精神状態が心配である。あの状態では、試験どころではないだろう。

 美青姉と兄は二人仲良く後期試験、ということになりそうだ。

 あたしは当事者じゃないから、そんな風に気楽でいられた。


 あたしでさえ、まだまだ理解が足りなかったのだ。

 普通じゃないって、どれだけつらいことなのか。


 部活を休み、飛鳥野高校に迎えに行くと、兄は申し訳なさそうに笑い、美青姉はぐすぐすと泣いていた。

「おにい、体調は大丈夫なの?」

「うん。ちょっと気絶しちゃっただけだから。……まだ、駄目みたいだ」

「何が……」

 疑問を口にしかけて、あたしは口をつぐんだ。

 兄は人と目を合わせられない。カメラ目線をするのすらできない。それは幼少より親に厳しく植え付けられた「人の話を聞くときは人の目を見て聞きなさい」「人と話をするときは人の目を見て話しなさい」という躾の行き過ぎた反作用だった。

 兄はこのままでは駄目だ、と努力しているのだ。親の躾が厳しすぎただけで、躾の内容自体は当たり前で、人と人との信頼関係を築く上で、かなり重要な、当たり前のことである。

 当たり前のことが、当たり前にできないから、兄は自分を叱咤して、できるようになろうとしている。最近はだいぶ人の顔を見られるようになった、とあたしも思う。今日もそうしようとして、駄目だったのか。

 あたしが一人、断じていると、美青姉がふるふると首を横に振る。

「違う、香折ちゃんは駄目なんかじゃないの。むしろ、私のために、香折ちゃんが無理して、だから、倒れて……試験も……」

「美青ちゃん、気にしなくていいんだよ。美青ちゃんが無理してたから、僕はそれを止めようと思って、やったことだ。美青ちゃんが倒れなくてよかった」

 それで自分が倒れていたら、世話ないだろうに、と思ったが、それより気になることがあった。

「美青姉、具合悪かったの?」

 朝、兄とは別々だったので、美青姉には会っていなかった。体調不良なら、無理しなければよかったのに。

 美青姉は深刻そうに俯いて、頷いた。

「最近、共感覚の影響か、目や頭が疲れやすくて。それがこんなことになるなんて……」

「本当に、気に病まなくて大丈夫だか」

「大丈夫じゃないよ!!」

 宥める兄を遮るように、美青姉が叫んだ。

 美青姉が怒鳴るのが初めてだったので、あたしも兄も唖然として、美青姉を見ていた。

「大丈夫なんかじゃないのに、安直に大丈夫とか言わないでよ! 香折ちゃんはただでさえ受験前からお父さんお母さんと揉めたのに、当日に試験会場で倒れて! 試験がぱあになって! それであの人たちが黙ってただ見過ごしてくれると思うの!? そうじゃないことくらい、香折ちゃんやなおちゃんの方がよくわかってるじゃない!! そんなの、大丈夫なわけないじゃない!!」

 美青姉の言葉は、白い息となって空気の中に広がっていく。それをやけに生々しく知覚した。

 背筋から、ぞぞぞ、と悪寒が這いずり、首筋を撫でる。

 無意識に、現実逃避していたのかもしれない。あたしも兄も、自分たちのこの後のことを考慮なんてしていなかった。

「私のお父さんとお母さんは優しいからいいよ。でも、香折ちゃんはそうじゃない。そうじゃないのに、巻き込んで、滅茶苦茶にして、これから香折ちゃんが傷つくの、私のせいだって、思わずにはいられないし、悲しいよっ……!」

「……美青ちゃんが、気にすることじゃないよ」

 慰めにもならない言葉を、兄は嘯いた。

 堂々巡りになる言い合いのはずが、あたしも美青姉も、喉に言葉がつっかえて、何も言えなくなる。

 兄の声が優しいせいで、優しさを纏った正論という暴力のせいで、あたしたちは呻くことすら許されない。これから一番苦しむのは兄だとわかるからこそ、何も言えなかった。

 家に帰ったら、おしまいになるのは兄だ。兄だけだ。

 帰らないで、ゲーセンででも遊ぼうよ、なんて言える雰囲気であるはずもなく、そうしたら、帰るしかなくて。

 最後の抵抗で、あたしたちは歩幅を小さく、のろのろと歩いた。

 雪がちらちらと降り始め、帰る頃には、容赦なく吹雪いてきて、あたしたちは、家に帰るしかなかった。

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あたしの周りは少しおかしい 九JACK @9JACKwords

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