第19話 受験勉強とショッキングピンク

 香折ちゃんが、私との勉強に他の人を招かないのには、理由がある。

「美青ちゃん、今日は色酔い、大丈夫? さっきの子、だいぶあれだったけど……」

「うん、大丈夫」

 色酔い。最近、共感覚による反動がひどいのだ。人の声が色に見えるのは以前からなのだけれど、最近、聞き取れる人の声が対面して話している子だけでなく、周りの雑談や何気ない会話にまで及んでしまう、所謂聴覚鋭敏みたいな感じになって、その上で聞き取った声が色に見えるから、目がちかちかしたり、視界が歪んだりして、気持ち悪くなることがある。それを色酔いと呼んでいるのだ。

 この感覚がなかなか理解してもらえなくて、最近は授業中もぐったりして、ちゃんと授業を受けられない。共感覚の感覚で話すと、みんな頭に疑問符を浮かべるだけで、私の話が理解できないようだ。人と違う感覚を持つことがこんなに不便だと思わなかった。

 共感覚に多い症状として、文字や数字を色で認識する、というものがあるが、私はその感覚はない。まあ、誰かの手書きの文字がその人の色にうっすら見えるくらい。だから、勉強は人並みにできる、はずだ。

 香折ちゃんはそんな私を気遣って、なるべく人気の少ないところで一緒に勉強するようにしてくれている。……と考えると、香折ちゃんが私を気遣って、大事にしてくれるのは、別にそういう好意からとかではなくて、純粋な善意からなのだろう。

 香折ちゃんにとって、私が恋人みたいな「好き」の対象かどうかはわからない。幼なじみ、もしくはほぼほぼ家族としての「好き」で「大事にする」なのだと思う。さっきは有頂天になったけれど。

 でも、やっぱり私はそういう好意を香折ちゃんに打ち明けようとは思わない。今打ち明けたら、他の有象無象の女子共と同じ、受験前ハイみたいな感じになりそうで嫌だ。私はイベントとかそういうの関係なく、ちゃんと香折ちゃんのことが好きなんだって伝えたい。

「うわ」

 図書館に着いて、思わずそんな声を出してしまう。なんと、いつもは静謐な図書館が、今日は何故か小学生で溢れ返っていたからだ。

 といっても、図書館は通常、静かにすべき場所なので、はしゃいでいる子どもはいない。これなら大丈夫だろう、と私は不安げに私を見ていた香折ちゃんに微笑む。いつも通り、目は合わなかったけどね。

 香折ちゃんは最近、人の横顔とか、真正面じゃなければちゃんと見るようになった。なかなかの進歩なんじゃない、と私は思う。以前は最初から最後まで相手がどこを向いても決して目が合わないようによそを向いていたから。

 香折ちゃんは頑張っているよ。けれど、ほとんどの人が当たり前にできることだから「どうしてできないの」なんて心無い言葉がかけられる。それに香折ちゃんは立ち向かっている最中だ。無理しなくていいと思うけれど、前向きなのはいいことなので、こうして見守っている。

 私は私で問題を抱えて、気を遣われているから、そこはお互い様って感じだ。これからもそういう風に支え合っていければいい。

「近くに学童保育があるんだっけ?」

「あるけど、違うと思うよ。学童保育も年齢制限を設けているところとかあるし、本当は学童に行かせたいけど、仕方がないから、図書館を親との待ち合わせ場所にしてるとか、そんなんじゃないかな」

「なるほどね」

 男女共同参画社会だっけ? よく覚えていないんだけど、共働きが一般的になってきたことで、子どもにこんな風にしわ寄せが来るのも、なんだかなあ、と思う。別に男だろうと女だろうと平等に権利がある、という思想自体は悪くないんだけど、「悪くない思想」で出来上がった世界で、不便をする人がいなくなるわけでもないというのが世の中の無情さを感じる。

 最近は「さとり世代」というのだっけ。親が共働きだと、早くから自立した行動を求められて、子どもが早熟する世代になった。だから、物静かな子が図書館で静かに過ごしてくれればそれでいいのだけれど。

 私たちが学校の図書室で勉強しないのは、学校の図書室は騒がしいからだ。人が多いのは受験シーズンだからだが、そこに入っていってしまうと香折ちゃんが集られる。私は女子たちのぐちゃぐちゃな色で目眩や吐き気を起こしてしまう。何もいいことがないというわけだ。

 さとり世代と呼ばれる小学生。私たちとそんなに年が変わらないはずなのに、図書館で静かにしていて、立派なことだ。勉強なんて退屈だろうに。最近は図書館も寛容になり娯楽本の範囲が広がった。ラノベとかが入るようになったのだ。それで若い層の利用者を募っているのだろう。

 閲覧スペースで、二人並んで座る。私はさっそく教材を開いた。香折ちゃんもノートを開く。ちら、と見れば、そこにはびっしり書き込みがされていて、小さいけれど綺麗な文字であるため、読みやすい。

 ただ、見易いノートかというと、そうでもない。香折ちゃんのノートは鉛筆と赤ペンだけで書いてある。先生はあんなにたくさんの色のチョークを使い分けるのに、香折ちゃんはどうして二色だけなのか、聞いたことがあった。

「結局、全部大事ってことでしょう? それなら要点だけ書いて、特に重要ってところは赤線を引いたら、それでいいかなって」

 あと一応青ペンも使っているよ、と見せられたが、青が使われているのはごく一部だった。

「ボールペン、苦手なんだよ。間違えても消しゴムで消せないから」

 香折ちゃんはそうも言っていた。そのため、香折ちゃんの筆入れの中に入っているボールペンは赤ペンと青ペンと黒ペンの三色ボールペン一本だけだ。

 香折ちゃんはそれなりに厳しく育てられた。だから字が異様に綺麗だし、ほとんど誤字もなく、一発書きをする。目を見て話せ、の他にも、親から強烈な指導があったようだ。消しゴムを使うとき、間違えたことを後悔するような顔をする。消しゴムを使うたびにあんな心を痛めているような表情をするの、香折ちゃんくらいだと思う。

 理由は消しゴムを使っても完全に消えるわけじゃないし、運が悪いと紙が汚れるし、間違えたという事実は変わらないからだそうだ。確かに、筆圧とかで跡は残るし、消しゴムで謎に黒いもやが伸びるとき、結構苛々する。ただ、間違えた事実は変わらない、というのはちょっと自分に厳しすぎやしないか、と私は思う。

「今日は国語だっけ」

「うん。高校に入ると、現代文、古文、漢文に分かれるんだよね」

「国語だと算数みたいに気軽なのにな」

「算数だって数学になると堅くなるでしょう」

「確かに」

 香折ちゃんは綺麗な文字で漢字を練習していく。私は問題文の写経をした。特に面白くもない時間が黙々と消費されていく。

 時計の針の音だけが、かちかちとベージュの音を立てる心地よい空間。私は静かでいいと思った。

 ぎっと向かいの椅子が引かれるまでは。

 音で集中が切れて、顔を上げると、向かいの席から乗り出してきた女の子の顔が至近まで迫っており、ぎょっとした。思わずがたん、と音を立てて仰け反る。

 私が立てた物音で、香折ちゃんもぴたりと手を止めた。無言のうちに私の胸の辺りを見て、どこで覚えたのか、手話で「どうしたの?」と問いかけてくる。

 手話は障害学級との交流のときに覚えて、使えるようになったらしい。手話なら目を見なくてもいい、という名案だったが、それには、こちらも覚える必要があるため、簡単なやりとりしかできない。

「え、ええと、お嬢さん、何かご用かな?」

 私が女の子に問いかけたことで、香折ちゃんもようやく女の子の存在に気づいたらしく、私よりびっくりしていた。三センチくらい、肩が跳ねる。

 女の子は意に介した様子もなく、私たちを好奇心でてらてらとしたショッキングピンクの瞳で見つめる。

「おにいさんとおねえさん、カップルなの?」

 ぴし、と空気が凍ったような心地がした。これは頷いても否定しても心に傷がつくタイプの質問が飛んできた。けれど、こんなにばっちり目が合っているのに、無視するわけにもいかないし、相手はいたいけな女の子だ。

 私が返答に困っていると、香折ちゃんが静かに口を開く。

「まず、椅子にちゃんと座って。机に足を乗せちゃ駄目だよ。危ないから」

「話逸らさないでよ!」

「ちゃんと椅子に座って安全になってからじゃないとお話ししたくないな」

「……むう」

 香折ちゃんに諭されて、女の子は椅子にすぽん、と収まった。座高の影響で肩から上くらいしか出ていない。

 まさか、目を見て話すことができないのに、子どもをあやすことができるなんて、と私は感心した。しかも優しく相手を誘導している。目を見て話せないだけで、話術はあるのかも。

 女の子が座ったのを見届けてから、香折ちゃんは口を開く。

「友達だよ。一緒に受験勉強してるんだ」

「いちゃいちゃじゃなくて?」

「図書館はそんなことする場所じゃないよ」

「でも、図書館デートって言葉もあるじゃん!」

「これは受験勉強です」

 おお、香折ちゃん強い。やんわりと恋人関係について否定されたが、傷つくほどのことではない。まだお互いに告白の一つもしていないのだから、恋人ではないのだ。

 流されないところと、ちょっと語調が頑なな感じがなおちゃんと似ていて、兄妹だなぁ、と思う。優しさの中に含まれるこういう素っ気なさが香折ちゃんが人気な理由なのかもしれない。

 しかし、話しかけてきた女の子もなかなか我が強くて、香折ちゃんに負けじと言い返す。

「男と女の友情なんて長続きしないってみんな言ってるよ?」

「それは世間一般の話。世間一般っていうのは世間の大半、つまり全部じゃなくて、多いパターンの話だ。みんながみんな、そうとは限らないよ」

「言い訳ばっかり。本当にお付き合いしてないの?」

「してないよ」

「テスト勉強は一緒にするのに?」

「付き合ってなくてもテスト勉強は一緒にするよ」

「隣同士に座るのに?」

「その方がやりやすいでしょう。別に仲が悪いわけじゃないんだから、距離を置く必要もないし」

「ちゅーしそうな距離にいるのに?」

「しないよ」

 素っ気なくいなしていく香折ちゃん。女の子はなんだかムキになっているような気がする。黙りこくって、ぷくっと頬を膨らませ、顔を真っ赤にしている。ショッキングピンクがちかちかとし始めて、私は目眩がしてきた。嫌な予感がする。

 その予感の通り、ショッキングピンクが爆発する。

「おにいさんのかいしょーなし!!」

「図書館では静かに」

 ノータイムで注意する香折ちゃん。もしかして、私が思うより、鋼のメンタルなのでは?

 私はもう駄目だった。甲斐性なしと言われたのは香折ちゃんだし、女の子とやりとりしたのは全部香折ちゃんだ。だというのに、私の中の羞恥が爆発して、その上でショッキングピンクも爆発して、ちかちか、きらきら、くらくらして、私は正体をなくしそうだった。

「……美青ちゃん、大丈夫?」

 香折ちゃんが女の子から目を離し、私の背中をさする。たぶん、私の顔色が悪かったのだろう。香折ちゃんは人の目を見られないだけで、顔色を窺うことは得意だ。

 ショッキングピンクが収まらなくて、私は香折ちゃんの顔が見えない。全然、大丈夫ではなかった。幼女、強い。香折ちゃんは涼しい顔をしているけど、私には全部クリティカルヒットしているよ。

「大丈夫じゃないかも……外に自販機あったよね。何か買ってくるよ」

「僕が行くよ。美青ちゃんは座って休んで」

 財布を片手に、あっさり出ていく香折ちゃん。その顔色が私にはわからない。

「んー、おにいさんはガチでああ言ってるみたいだね、おねえさん?」

 女の子がピンク色の目でこちらを見る。少し色の抜けた栗毛にピンクの目はよく似合っていた。けれど、ピンクに見えるのはきっと私だけで、この子の目も黒か茶色なんだろうな。

「そりゃ、香折ちゃんの言うことに何一つ間違ったことは含まれてませんもの。おませさん」

「……おねえさん、具合悪い? 顔が青ざめてる」

「大丈夫。少し黙っててくれるかな」

 女の子の純粋さが、たぶん眩しいのだと思う。純粋故に鋭利な刃が私にショッキングピンクとなってぐさぐさと刺さってくるのだ。

 香折ちゃんの恋人になりたい。私だって、そういう意味で香折ちゃんが好きだ。そう言ってしまいたい。甲斐性なしは、私の方だ。

「おにいさんイケメンだから、ちゃんと捕まえとかないと、盗られちゃうよ」

「そんなのわかってるよ……」

 具合悪い子を椅子で休ませて、飲み物を買ってくるという判断が瞬時にできるのはイケメンムーブ以外の何者でもない。

 これだから香折ちゃんはモテるのだ。これだから私はどうしようもないくらい、香折ちゃんのことが大好きなのだ。

 でも、この思いを伝えたら、今までの関係が終わってしまわない? 香折ちゃんと、なおちゃんと、三人で楽しい、今のままでいいよっていう自分もいて、どうしたらいいのかわからない。

 まだ人生の酸いも甘いもろくに経験していないであろう幼女に言われなくてわかっているのだ。

 香折ちゃんはあの性格だ。たぶん、自分から告白なんてしてこない。そもそも、私にそういう好意を抱いているかどうかもわからない。

 今のまま、なあなあに過ごすのも一つの手だ。けれど、高校入学、これは契機なのではないか?

 受験ハイのやつらなんかと一緒にされたくない。

 でも、高校が同じでも、一緒にいられるかわからない。高校には私なんかより、ずっとずっといい子がいるかもしれない。

「……受験受かったら、告白する」

「えー、今コクりなよー」

「五月蝿いガキだな。シチュエーションとかあるでしょ」

「それくらいわかるもん。でも、おねえさん」

 ショッキングピンクが深みを増して、マゼンタからパープルへと変わっていく。こんな風に色が変わるのを見たのは初めてだ。

 私が驚いていると、女の子は意味深そうに言った。

「またあした、が必ず来るとは決まってないんだよ?」


 その言葉の意味が、そのときはまだ、わからなかった。

 気づいたのは、何もかもが手遅れになった後だった。

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