第18話 変化へのプリズム

 受験シーズンが始まってから、なおちゃんと会える時間が減ってしまった。

 試験を受けるだけなら香折ちゃんは楽勝だけど、受験票とか書かなきゃならないし、先生との面談も増えてくる。女子人気が高くて勉強のできる香折ちゃんとお近づきになりたい女子は、イベントバフでもかかってんのかってくらい湧いてくる。まあ、受験も一種のイベントなのかな。

 イベント感覚で人生の一大事を迎えるのもどうかと思うんだけど、まあ、人生ってそういうものかな。私の人生に他の同級生は関係ないわけだし。

 ただ、問題は香折ちゃんだ。香折ちゃんはなおちゃんと正反対で、塩対応というのがまるでできない。頼まれ事をしたら簡単に断れない、日本人のお手本みたいな性格をしている。それは美徳ではあるんだけど、香折ちゃん自身の首を絞めているところがあるのも否めない。

「島﨑くん、勉強教えて」

 そんな女子が絶えない。

 私は女子たちを止めようとしたけれど、よくよく考えて、私には止める理由も資格もないことに気づいた。

 私は香折ちゃんの幼なじみだ。そりゃ、お年頃なので、香折ちゃんを「そういう」対象として意識したりもする。けれど、そのことを香折ちゃんにもなおちゃんにも話していない。変な空気にしたくないからだ。

 ただでさえ二人は家に帰るとあの毒親の論理に晒されながら生きなければならない。さぞ生きづらいことだろう。目立ちたがりでもないのに目立ってしまう二人が、最後、どこに逃げたらいいか、となったとき、私だけがそれになれると確信した。

 二人はそれぞれの性質上、友達が少ない。もしかしたら、私しかいないんじゃないか、と思うときもあった。なおちゃんは青天目くんって子と仲良くしているみたいだけど。

 地毛が金髪のなおちゃんは嫌でも見た目が目立つ。その割に語気が荒く、言葉遣いが悪い。塩っ辛いその対応を良く思う人と悪く思う人がいる。対して、香折ちゃんは男なのに編み込みが好きで、学ランが引くほど似合わない。三年も見ていれば、慣れるかと思ったけれど、そんなことはなかった。

 けれど、似合わない学ランを補ってあまりあるほど、女ウケする顔の香折ちゃんもまた、嫌でも目立った。私は香折ちゃんの数少ない友達として隣にいる。みんなも私のことはそういう認識だ。変わったやつの隣にいる変わったやつ、くらいの認識だ。

 私はあくまで私は香折ちゃんの「友達」だ。だから女子は警戒しない。私が香折ちゃんをそういう目で見ていても、香折ちゃんは私のことをそういう目で見ていないから、女子たちにとって、私は脅威となり得ない。

 そういう存在だからこそ、私は香折ちゃんの逃げ場になれる。なおちゃんもそういう存在と認識していないから私を頼る。香折ちゃんのこともなおちゃんのことも好きだ。だから、香折のためだけ、でなく、香折ちゃんとなおちゃん、二人のために動くことを選んだ。

「でも、今日は美青ちゃんと……」

「いいじゃん、その子とはいつも一緒にいるでしょ?」

 私はその言葉にすっと心が冷えた。

 有象無象たちにとって、私は香折ちゃんの金魚のフン程度の認識なのだろう。そう思われているのは、わかっていた。わかっていたけど、いざ口に出されると、胸に来るものがある。

「あのさ」

 香折ちゃんが、なるべく相手の目に合わないように、それでも相手の顔の近くを見る。

「ちゃんと、君のこと覚えてるよ。四月に告白してきた夢野さんでしょう? 僕はしっかり誠実にお断りしたつもりだけど、どういうつもり?」

 私と女子がぎょっとした。たぶん女子より私の方が驚いていたと思う。だってあのイエスマンな香折ちゃんが、反論したのだ。相手の目を見ることはできていないけれど。

 それに、この言い方、もしかすると、今まで自分に告白してきた相手の容姿や名前、特徴諸々を全て記憶しているのだろうか。だとしたら、尋常じゃない。

「い、いいじゃない。受験勉強を一緒にするくらい。同じクラスなんだし」

「でも、夢野さんの志望校は村崎工業のはずでしょう? 僕は飛鳥野だ」

「学校が違くたって、勉強することは同じだよ!」

 その通りだ。高校受験、一般受験であれば、試験内容は同じ。試験範囲も同じ。どんな高校を選ぼうと、勉強する範囲は同じなのだ。だから、一緒に勉強しても、何も問題はない。

 だが、そこはさすが香折ちゃんというか、元々ちゃんと返事を考えていたのか、言い返す。

「君は美青ちゃんにいなくなってほしいと思っている。そんな子と一緒にいるつもりはないよ」

「……!」

 女子は目を見開いて、それから踵を返して走り去っていった。私はそれを呆然と見送る。それしかできなかった。

 びっくりした。香折ちゃんが私のことを優先して、人と距離を取ることを選択するなんて。その選択をはっきりと口に出して主張できるなんて。

 ふと、香折ちゃんの方を見ると、香折ちゃんはふら、と倒れかけた。

「香折ちゃん!?」

 私は慌てて香折ちゃんを支える。香折ちゃんは目元を押さえていた。よく見ると汗ばんでいて、体温も服越しとはいえ、あまり感じられなかった。

 おそらく、人と目を合わせたときとほとんど同じ症状が出ている。香折ちゃんの致命的な欠点。人と目を合わせると、気絶する。だから人の目を見て話せない。視線を頑張って逸らしていたが、アウトギリギリだったのだろう。

 私たちは近くの壁に寄りかかった。壁に背を預けると、香折ちゃんはずるずると崩れていく。

「ごめん……」

 掠れた小さな声が聞こえる。目元を押さえ直して、その上でこちらを見ようとしない。見れば、肩が微かに震えていた。

「大丈夫?」

「大丈夫」

 しまった、と思う。こういうとき、咄嗟に心配としてかける言葉に「大丈夫?」というものをよく選んでしまう。けれど、「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫じゃない」なんて答えられる人はかなり稀だ。相当自分に正直か、取り繕えなくなっているかの二択である。

 香折ちゃんが「大丈夫?」の問いに大丈夫でも大丈夫でなくとも「大丈夫」と答えてしまうことはわかりきっていた。それなのに、私は語彙がないから「大丈夫?」としか聞けない。

 大丈夫なわけないのに。どうしたらいいかわからない。

「香折ちゃん、無理することなかったんだよ」

 私がどうにか捻り出した言葉に、香折ちゃんは首をきっぱり横に振る。

「駄目。美青ちゃんを優先したいと思った。美青ちゃんより優先度が高い子なんて、尚弥くらいだよ」

「え……」

 私は頬が紅潮していくのを感じた。かなりさらっと言われたが、香折ちゃんってば、今、かなりとんでもないことを言っていた。香折ちゃんに思いを寄せる有象無象たちが聞いたら全員引っくり返ることだろう。聞かせてやりたい。そうして引っくり返ったところを馬鹿みたいに笑ってやりたかった。

 私のこういう部分をたまになおちゃんに語って聞かせると、なおちゃんは「あたしに似ないでよ」と困ったように眉を八の字にする。あのくしゃっとした笑い方が私は好きだ。

 はーあ、とんでもないことをこんなにあっさり言ってくれやがって、と私は香折ちゃんを見る。

 私より優先させるのは妹のなおちゃんだけだ、と言った。それはつまり、実質のところ、一番大事にされている、ということだ。

 もちろん、幼なじみで、半ば家族みたいなところがあって、その延長かもしれないけれど、それでも私に色の印象しか残していかない有象無象より、私が優先されるのは心地がよかった。性格が悪いと言われてもいい。これは確かな優越感だった。

「それに、同じ学校に行く人なら、これからも交流する機会があるだろうけど、違う学校なら、もう関わる必要はないでしょう?」

「おお、香折ちゃんにしては随分割り切った考え方だね」

 私がなるべく深刻にならないような声色で言うと、香折ちゃんは苦笑いした。

「いい加減、割り切らないと。美青ちゃんや尚弥に迷惑ばかりかけていられないよ」

 その声には自嘲が滲んでいた。

「迷惑なんて、思ったことないけどな」

 私がそうでも、なおちゃんは迷惑だと思っているだろう。……なんて香折ちゃんは考えているにちがいない。

「自分のことがさ、好きじゃないんだ。僕」

「え?」

「人と目を合わせて話すことができない。人と目を合わせることは信用や信頼の深さを表すことが科学的に解明されている。でも、僕にはどうしてもそれができない」

「それは香折ちゃんが悪いんじゃないでしょ」

 あの毒親二人が悪いんでしょうに、と私は反論するが、香折ちゃんは首を横に振る。

「あの人たちの躾が厳しかったのは確かだよ。でも、それを乗り越えられなかったのは、僕の弱さだ」

「どうしてそんなマイナスに考えるの?」

「さすがに今のままじゃ駄目だって思うから」

 人と目を合わせられないことに関しては、香折ちゃんへの両親の躾を知っているなおちゃんですら、苦言を呈していた。

 私は庇っているけれど、さすがにカメラにも目線を合わせられないのはいかがなものかなあ、とは思っている。香折ちゃんの生徒手帳の写真はついぞカメラ目線になることはなかった。これは車の免許とかのとき、大変な思いをすることになるだろう。

 それでも、香折ちゃんが苦しい思いをしてまで成さねばならないことじゃない、と私は思う。甘いかな。でも、香折ちゃんにはなおちゃんさえ厳しいから、私くらい、甘くてもいいと思うんだ。

「普通の人間になりたい」

 独り言のように放たれた言葉が、耳元で音を鳴らしたような気がした。

 こう、音が弾けた色を感じたような気がしたのだけれど、私はすぐに何色か、判別ができなかった。

 ただ、ひどく胸を打たれた。そんな色だったことが、瞼の裏にまざまざと焼きついている。

「普通の人と同じように、目を見て話せるようになりたい。いきなりそこまでできなくても、僕が信じている人や、僕を信じている人の、目を見て話したい。臆病な僕は目を真っ直ぐ見られたことがないんだ。だから、美青ちゃんでさえ知っている、尚弥の目の色も知らない。

 ……美青ちゃんがさ、綺麗っていうものを、同じように見てみたいんだ」

 その言葉は宝石みたいに綺麗だった。私の中で虹みたいなプリズムみたいな綺麗な何かが、弾けて転がったような気がする。

 香折ちゃんが、私と同じものを見たい、と言っている。正確には、私が見ているのは共感覚という一種の知覚障害の世界で、香折ちゃんはそういう傾向がないから、同じ色には映らないのだろうけれど……私が綺麗だと言ったものを見てみたい、と思ってくれたことが嬉しくてたまらないのだ。

「……ん、落ち着いてきたから、行こう。図書館」

「うん!」

 今日は二人で受験勉強だ。とは言っても、ほとんど香折ちゃんに教えてもらうことになりそうだけど。

 それでも「二人」でいることを意識して選択してくれたのが嬉しかったから、私の足取りは弾んでいた。

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