第16話 好きに生きさせてよ
文化祭は恙無く執り行われた。
というと、多少嘘になるか。でも、兄のクラスのモザイクアートは間に合った。写真さえあればあとはパズルのように組み立てるだけなので、クラス全員で協力すればなんとかなった。兄は参加しなかったようだけれど。
兄がぐちゃぐちゃにした写真も、データを壊されたわけではないので、再び現像してくればいいだけの話である。兄に対する非難はあまりなかった。
ただ、学級委員長が精神を病み、休学になったという。ざまあみろ、と思ったが、両親と兄は学校に呼び出され、経緯説明がされ、わざわざ委員長の家に謝罪に行ったんだと。
ちゃんちゃらおかしい。不愉快な思いをしたのはこちらなのに、不当な扱いを受けたのは兄の方なのに、何故そちらからの謝罪はなくて、こちらが謝らなくてはならないのか。精神を病んだ方が被害者だと、何故決めつけるのか。あたしには到底理解できない。
というか、精神云々の件なら、兄の方が経歴は長く、業も深いが、その辺は考慮されないのだろうか。
ああ、考慮もへったくれもない。そもそもやつらは兄がそういうものを抱えていることを知らないし、知ろうともしないし、認めない。
そのくせ、自分たちのことは配慮してほしいという、厚顔無恥な人間があたしは嫌いだ。
展示は教師の顔になった。一度、見に行ったけど、ぶっちゃけ似ていない。まあ、中学生の創作物なんて、そんなものだろう、と思う。
うちのクラスの劇はそれなりの評判を得て、それなりに役者たちも満足して、それなりで終わった。あたしは当初の志望通り、照明係ができたので、それなりに満足だ。
ただ、やはり、キスシーンは沸いたな。あたしは一ミリも感動できなかったけど、二日間行われた文化祭の中で、キスシーンのある劇をやったうちのクラスは盛り上がった。
イベントバフのかかった猿共は王子とヒロインに「お前ら文化祭まで付き合っちまえよ」などと交際を強要し、ピュアピュアな感じで赤面した二人は、その言葉に無理に逆らうでもなく、カップルになった。
これが意外なことに長続きしており、興味深い。やはり、キスをすると何らかの一線を越えるのだろうか。二人は自然なカップルになっていった。いちゃいちゃしすぎない大人しめのカップルなので、あたしも好ましく思っている。
と、イベントが過ぎ去って、学校はなんだか静かになった。部活も三年が抜けて、二年生がメインで活動をする時期に入る。あたしはキャプテンになる話を断った。
「なんで?」
部長が聞いてきた。あたしは相手が部長でなかったら、唾でもかけていたかもしれない。
「リーダーなんて柄じゃないですよ。部長も冗談で言ってるんでしょう? あたしが断るのわかってるから。大体、あたしにチームメイトがついてくると思います?」
「ないね。百パーない」
「百パーはさすがに傷つくんですけど」
まあ、事実だから、傷といっても、引っ掻き傷程度のものだ。一週間もすれば忘れる。
あたしは協調性がないわけではないが、口が悪く、怒りっぽく、語気が荒い。人間関係を良好に保つことが苦手、というより、人間関係を良好に保つことに興味がない。我が強すぎるから。
喋らなければ、普通に見えるけど、喋った途端に十人中十人の男子を幻滅させる自信がある。そんな自信いらないが。
「島﨑はさー、裏表ないじゃん」
「裏表という言葉が嫌いなんで」
「だから人間として信頼できるなー、と思って」
それはありがたいけれど。あたしも部長も、同じタイミングで失笑した。人間性を信頼することができても、チームを引っ張るキャプテンに適しているかは、また別の話なのだ。
「エースが必ずしもキャプテンになるわけじゃないっていい例だね、島﨑は」
「あたしのことエースなんて言うの、部長くらいですよ」
うちのアタッカーは優秀だ。あたしはたまたま背が高いだけ。
それに、バレーにみんなほど、情熱を捧げているわけでもない。高校になったら、やめようと思っている。
「そうそう。そのドライな感じが島﨑のいいところなんだけど、好み分けるからねー」
部長は好きでいてくれるらしい。
「あたしはそれで充分ですよ」
「それは重畳」
あたしは部長とトス練をした。セッターじゃないけど。
部長とこうして練習できるのも、もうないんだな、と思うと、少しはセンチメンタルになる。
「部長はどこ受験するんですか」
「飛鳥野」
「あ、じゃあ、一年後にまた会いますね」
「へえ、島﨑飛鳥野にするんだ」
「制服かわいいんで」
あたしがそう返すと、ボールがぽて、と受けられることなく落ちた。部長が腹を抱えて笑っている。
あたしは口を尖らせた。
「なんで笑うんですか」
「だって……ふふっ、まさか島﨑が制服かわいいで進学決めると思わないじゃん」
「あたしだって一応女ですよ! 中学がセーラーなら高校はブレザーくらい思いますよ!」
むう、と頬を膨らますと、部長はボールを拾って、あたしの前に来た。頭をぽんぽん、と撫でられる。
「じゃあ、さよならじゃないな。またな、島﨑」
「はい、部長」
もう部長じゃないよ、と部長はひらひらと手を振った。
二年間もお世話になった先輩の名前を苗字すら覚えていないなんて、今更言えない。
だから、あたしは誤魔化した。
「じゃあまた。先輩」
先輩の表情は後ろ姿でわからなかったけれど、たぶん笑っていたと思う。
あたしが気兼ねなく話せる相手が、一人いなくなった。
家に帰ると、パートから帰った母が兄に詰め寄っていた。
「ねえ、記念受験でいいから、ここの私立を受けてちょうだい」
受験シーズンに入ってから、日常風景と化した、これ。
「僕は公立の飛鳥野を受けるから」
「記念受験でいいの」
「私立は受験するだけでお金かかるでしょ」
「お金のことなら心配しなくていいわ。お父さんもお母さんもそのために稼いでいるんだもの」
あたしはいらっとした。
私立を受験させるために稼いでいる。いい学校をお受験させるために稼いでいる。そういうニュアンスにしか取れない。
決して父も母も兄が自由に学校を選べるようにするために稼いでいるのではない。私立を受験して、合格する。子どもがそんな偉業を成し遂げたことを親としての箔にしたいだけだ。
「飛鳥野って偏差値低いでしょう? 行くのを決めてるなら、せめて推薦入学を」
「僕は一般受験がしたい。もし落ちても後期試験があるし」
「落ちるなんて言わないでよ!! あなたが落ちるわけないでしょう!! 小学校の頃からずっと学年トップの成績をキープして、全国模試でも十位以内に入るあなたが!! なんでそんな意識の低いことを言うの!? 信じられない!!」
あ、母の癇癪が来た、と思ったときには、あたしは母と兄の間に入っていた。花瓶をひったくろうとしていた母の手首を掴む。少し遅れていたら、この花瓶は兄に投げつけられていたにちがいない。
母の手首をぎりぎりと握りしめながら、あたしは兄の方を向く。
「説き伏せたんじゃなかったの?」
兄と目は合わない。
「納得してくれたんじゃ、なかったんだ……」
呟いた兄の声には落胆の色が滲んでいる。おそらく、その場は納得したふりをしてやり過ごし、時期が来たら責め立てれば、兄は折れると思っていたようだ。
このクソ親が。子どもを何だと思っているんだ。お前らのためのお飾りじゃねえんだぞ。
兄にだって、兄の信念がある。それが語られてから、あたしは兄のことを応援しようと思った。あたしの些細な提案を覚えていてくれたことが嬉しかったし。
「お母さんはどうして花瓶なんか持とうとしてるの? まさか暴力? さすがのあたしもそうなったら警察に通報するけど」
母の手がわなわなと震える。思った通り、「警察」という単語の効果はてきめんだったらしい。子どもを自分のステータスだと思うような親が、外面を気にしないわけないもんね。
「ぼ、暴力なんて大袈裟な。尚弥の考えすぎよ」
「そうかな。話の流れから、生意気な口を利く息子をしつけるために花瓶で殴ろうとしたようにしか思えないけど。まさか、この場面でお花を活けるなんて優雅な行動に走るとは思えないし」
「何を言ってるの。お母さんだってお花くらい活けるわよ」
あたしは母の手首を握る手に、ぎり、と力を加えた。母が呻く声が、声というか雑音にしか聞こえなくて、あたしは気持ち悪くなる。
蛙の鳴き声の方がもう少し雅だ。
「な、尚弥こそ、暴力に走ってるじゃない! そんな風に育てた覚えはないわよ!?」
「おあいにくさま、育てられた覚えがないもんでね。っていうか、話を逸らすな」
あたしはどす黒い声を出して、母の手首を曲がってはいけない方向に曲げようとする。鍛えられていない細い手首は、簡単に壊せそうだった。
抱いてはいけない感情、衝動が沸き上がる。もういっそ、このまま母の手を壊してしまおうか。やろうと思えばあたしにはできる。正直、あたしにも兄にも害悪しかもたらさない親のことをあたしは嫌っていた。一度痛い目を見ればいい、と思っていたけれど、体裁を取り繕うのだけは上手くて、鉄槌が下らないのだ。そのことにずっと苛々している。
考え方を変えよう。誰かに裁いてもらうんじゃなくて、あたしが今ここで、やってしまえばいいんじゃないか?
「尚弥、駄目だよ。放して」
少し冷たい手が、あたしに触れる。触れられた手から、不思議と力が抜けていき、ついでに気も抜けていって、あたしはぺしゃん、と地面に座り込んだ。
手を放させてくれた兄が、しゃがんであたしと目線の高さを合わせてくれる。目は合わないけれど、それが兄なりの誠意であることをあたしは知っていた。
「尚弥、父さんや母さんは尚弥をそう育てなかったかもしれないけど、暴力はよくないことだって、尚弥は知っているはずでしょう? 駄目だと思っていることをしちゃいけないよ。自分の道徳に逆らっちゃいけない」
兄の優しい声が耳朶を打つ。雨音みたいだ。
「おにいの馬鹿……」
「うん」
兄は優しいのに、兄が優しいことを知っているはずなのに、あたしの口からはそんな罵倒しか出てこない。こんなに優しい兄が育ててくれたはずなのに、口が悪くてごめんなさい。
「とりあえず、お母さん、おにいの進路なんだから、おにいの好きにさせてあげなよ」
「なっ、尚弥は親でもないくせに、偉そうな口を利くんじゃありません!」
「あんたは親のくせにとことん子どもに寄り添えないね」
あたしの減らず口に、母は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくとする。魚みたいだ、と思うと、笑いが込み上げてきた。餌を求める金魚でも、もう少し上等な顔をするだろうに。
気づけばあたしは腹を抱えて笑いこけていた。兄も母も混乱している。たぶん、あたしが壊れたとか思っているのだろう。失礼きわまりない。
だが、完全に否定もできない。あたしはどこか、壊れているのかも。だって、こんなひびだらけの家の中で、必死に自分を保っているんだもん。無理だよ。
ひとしきり笑うと、あたしは立ち上がり、鞄に忍ばせていた飛鳥野高校のパンフレットを母に見せる。
「ねえお母さん、この制服、おにいに似合うと思わない? 今の学ランくっそ似合わなくて笑えるからさ、高校くらい制服の似合うとこに通わせてあげなよ」
「制服で高校を決めるなんて……!」
「多様性の時代だよ」
あたしは溜め息と共に吐き出した。あたしが今、一番使いたくない言葉を。
「学校は勉強だけが全てじゃない。あたしたちより人生経験豊富なお父さんやお母さんの方がよっぽどわかっているんじゃない? 勉強以外の何を選んだって、あたしたちは自由なはずだよ。お洒落な制服にだって憧れる。これは全然不思議なことじゃない。だってあたしたちはそういう『お年頃』なんだもの」
自分の物言いが、すごく嫌だ。たぶん、この言葉を向けられている母が、一番嫌な気分なのだろうけれど。
正論よりふざけた暴論はない。
「そうだ、お母さん、今日の夕飯、何?」
なんでもないように、あたしは話の矛先を変えた。母は言いたいことがたくさんあっただろうに、ぐっと唇を引き結んで、焼き魚とおひたし、と答えた。
消化不良にさせたかった。あたしの思いを、しんどさを、少しでも思い知ればいい。そういう仕返しをあたしは選んだ。
「あたし焼き魚だぁい好き」
白々しい自分の声に、乾いた笑いが零れる。兄が不安げにあたしを見ていた。
憐れまないでよ。あんたのためなんかじゃないんだから。
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