第15話 友達でいたい
美青姉から概要を聞いて、あたしはなんとも言えない気持ちになった。
どうして、学級委員とやらはそんなことしたのか。どうして、美青姉が罪悪感なんて覚えるのか。
腹が立つ。何もかもに腹が立つ。
「美青姉が謝ることはないよ。大変だったよね」
月並みなことしか言えない自分も嫌だ。けれど、月並みにこと以外、なんて言えばいいのだろう。
あたしは視線をさまよわせて、兄に辿り着く。兄は俯いているが、顔色が悪いことが確実にわかった。
幼なじみの女の子を泣かすなよ、不安にさせるなよ、などと兄を責める気持ちが泡のように浮かんでは消える。そんなことができる兄ではないのは充分承知の上だし、今回の場合、美青姉よりも兄の方が被害者だ。
おそらくだが、男子よりも女子のイベントバフの方がややこしいのだろう。精神構造が複雑怪奇に大人へと変わっていく過程の女子は、好意の伝え方が回りくどくなる。だからたぶん、その学級委員とやらも、兄のことが好きなのだろう。
絶対に目の合わない島﨑香折という男に絵の中でだけでも振り向いてほしかった……のだとしたら、一見美談のように聞こえるが。結局はその他大勢も巻き込んでいるため、迷惑甚だしいことこの上ない。
その上で、好きな人ごと傷つけているんだから、不器用というより馬鹿だ。
「本当、こんなやつのどこがいいんだか」
でも、モザイクアートにされた兄、というのは見て見たかったかもしれない。モナリザかな。
帰り道、コンビニに寄る。まだ明るい時間であるため悪ぶっている輩はたむろしていない。あたしはコンビニで一番安い棒アイスを三本買った。
「ほら、おにいと美青姉の分」
「ありがとう、尚弥」
礼は目を見て言え、……とは言えなかった。あたしは兄のこと、好きじゃないけれど、兄を責め苛みたいわけではないから。
親みたいになりたくない。それでも年を重ねると嫌になるほど似てくる親とあたしの言動、口調、語調。……ああ、口の悪さは親以上かもしれない。
あんな風になりたくない、と思いながら、あんな風に近づいていく自分が嫌になる。その点で言えば、兄はちっともあの人たちに似ていなくて羨ましい。性格もいいし、他人を思いやれるし。
そういうとこ、ということだろうか。価値観の多様性というか、変化、変容。女性は気が強いのが好まれ、対照的に男性は強気より儚げでありながら、他者を慮る優しさがある方が好まれる。あたしと兄はそんな風に育った。
生まれる時代が違ったら、あたしと兄は今よりもっと苦労したことだろう。だから今に生まれたのがマシ……かどうかは、もしもの話なので、断言できないけれど。
「こんなやっすいアイスで慰めになるかはわかんないけど」
あたしはなるべく優しく聞こえるように話した。
「二人共、あんまり気に病んだら駄目だよ。確かにおにいのしたことは悪いことかもしれないけど、悪いのはお互い様なんだし。というか、おにいはこれを期に、怒る練習でもしたら?」
そう、兄は普段は怒らない、温和な人物だ。たぶん、親に怒られすぎて、自分が怒るという発想に至らないんだろうけど、兄だって怒る権利はある。基本的人権だかなんだかの中に感情面の保護とか保障されていなかっただろうか。まあ、法律がどうかは些細な問題だ。喜怒哀楽というのが人間に等しく与えられた「当たり前」の感情ならば、それを「当たり前」に行使することの何が悪いというのだろうか。
「怒る練習……」
「そ。あ、あの馬鹿親は参考にしちゃ駄目だから」
「それは、うん」
言わなくても、あんな怒り方しないだろう、兄は。人にされて嫌なことは人にしない。どんな家庭でも教わる基本的な倫理。それを兄が遵守することくらいわかる。
兄はもう戻れないけれど、兄に関わる誰かがそうなってしまわないように。兄はそういう優しさを持っている。
あたしは、あたしがやられたら一番嫌なやり方で仕返しするけどね。本当、そういうとこが駄目なんだろうな、とわかりつつ、やめることはできない。
あたしと兄は違う。違うことを、あたしは許してほしい。
誰に、というわけでもないけれど、強いて言うなら、社会とか、世間とか、世界とか、みんながそう呼ぶものだ。
しゃり、と棒アイスを食む。独特のしゃり、という音が耳に涼しい。ラムネの爽やかさと甘さが口の中に広がって、一瞬で溶けて消える。
「……はあ。文化祭終わったら、受験かあ」
「だからイベントハイが更にハイになってるんだね。それでもあんなことされるのは嫌だけど」
「それはそう」
なるほど、とあたしは得心する。イベントバフというのは三年生にとっては「中学最後の」になるわけだ。それも変なバフになるという寸法である。
「……傍迷惑な話」
「あ、当たり」
「うえー!? 香折ちゃん最近ずっとじゃない!?」
「おにい、こういうとこで運使うから微妙に薄幸なんじゃないの」
あたしは冷静に兄を笑う。兄は苦笑して、そうかも、と言った。
そう、兄は怒らない。こんな生意気な妹にも。そんな兄が怒るなんて、天地が引っくり返るのではないだろうか。
「食べたいなら、交換してくるよ」
「香折ちゃん、お腹繊細だもんねー」
「その言い方どうなの」
言い方はともかく、美青姉の言う通り、兄は冷たいものを食べすぎるとあたりやすい。美青姉やあたしが一緒にいるときしか、アイスなんて食べない。だから、三人でアイスを食べるのは、なんだか夏の風物詩みたいだった。
来年は、一緒に食べられるんだろうか。
ふと、そんなことを考えた。来年、あたしは中学三年、兄と美青姉は高校一年だ。時間割が違うかもしれないし、高尚なうちの親がそんじょそこらの高校を許すとは思えない。最悪、美青姉と兄もばらばらになるかもしれない。
そんなあたしの考えを見透かしたかのように、兄が口を開いた。
「飛鳥野高校を受験するって決めた」
「え、あそこ、偏差値低いし、うちの親が許さないんじゃ」
「説き伏せた」
ぎょっとする。兄の口から出た言葉とはとても思えなかった。
あの親を、説き伏せた? 親の言いなりの兄が?
兄は相変わらず、どこを見ているのかわからない目で告げる。
「僕にだって、譲れないものはあるし、許せないことはある。それに、私立の高校は面接があるから無理」
「ああ、おにい、人の目を見るのできないもんね……」
自動的に推薦入学も消える。人の目を見て話せない生徒なんて、いくら成績がよくても入学させたくはないだろう。どうせ落ちるなら、そんな無駄なことはしなくていいわけだ。
「美青ちゃんと同じ高校に行きたいんだ。できれば、尚弥とも」
「え?」
確かに、飛鳥野高校はあたしが行きたいと話したことがある。こんなあたしでも、制服可愛いくらいを判断する価値観はあるのだ。
どこの高校に行っても、習うことはほとんど一緒なら、少しくらい三年着る制服に愛着を持ちたい。そんな安易な考えだ。三年生になってから、真剣に考えればいいだろう、と楽観していた。
兄はくすっと笑う。
「飛鳥野高校だけだったでしょう? 尚弥が僕に制服似合いそうって言ったの」
「……」
つう、とまだ残るアイスの表面を結露が伝う。あたしは呆然としていた。
本当の本当に、他愛のない話をしていたのだ。高校の制服のカタログを片手に。兄の学ラン姿があまりにも似合わないのを笑いながら、あれも駄目、これも駄目、ときゃらきゃら笑って、そうして見つけたのが、飛鳥野のブレザーだった。
灰色のジャケットにネクタイ。緑のスラックス。これなら兄に似合うだろう、と簡単に茶化しただけのつもりだった。女子はスカートがチェックで可愛いとか、普通の女子でもするような話だ。
そんな些細なことを、あたし自身が言われるまで忘れていたようなことを、兄は覚えていたのか。確か、一年以上前の話だぞ。
気の細かい兄だと思ったが、まさかそれを気にしていたとは。
「尚弥、アイス溶けるよ」
「あ、うん……え?」
気のせいかな、兄と目が合った気がした。目をぱちくりしたが、兄はさっと向こうを向いて、やはり気のせいだと思った。
けれど、何故だろう。黒曜石? いや、それよりもっと透明な黒が、あたしの網膜に焼きついて離れない。一度合ったような気がした兄の目は、えらく綺麗な色をしていた。
「なおちゃん、落ちる落ちる!!」
「あ! んううううっ」
美青姉の声ではっと我に返り、あたしは落ちかけのアイスをどうにか口に含むことができた。じゅわ、とラムネの酸味を想起させるような爽やかさが鼻を抜ける。しゅわりと溶けたそれを無理矢理飲み込んだ。飲み込みきれなかったのが一筋、口の端から垂れるのを拭う。
「もう、なおちゃんったら。ぼーっとしちゃってどうしたの?」
「美青姉……」
あたしは、言うべきか悩んだ。
美青姉が共感覚で、人と違う色や景色が見えることを知っている。美青姉が兄の側にいるのは、兄の色がわからないからだ、といつか聞いた。
だから、兄と目が合った、というべきか、悩んだ。アイスのせいではない寒気が腰の辺りから背中を這いずる。
──もし、美青姉が兄の目の色を知って、兄から離れていってしまったらどうしよう。
あたしには、美青姉を止める術がない。美青姉は大切な存在だけど、美青姉にとってあたしが大切かはわからない。一つ言えるのは、大切の序列をつけるなら、あたしより兄の方が上だということ。
だから、美青姉が兄といる目的を果たしてしまったら、あたしはもう、美青姉に会えないかもしれない。あたしは美青姉を引き留められない。兄が美青姉を引き留められないのに、あたしに引き留められるはずがないのだ。
そう考えると、怖かった。臆病者、卑怯者、と自分を頭の中で謗り尽くしたが、それでもあたしは美青姉に言う、という選択肢を選べなかった。繋がりがなくなるのが、こんなにも怖いなんて。
でも、兄の目はあまりにも綺麗で、教えてあげたい、という気持ちが戦う。綺麗なものを共有したい。美青姉とだから。それでも、繋がりがなくなってしまう可能性への恐怖の方が勝る。
たぶんあたしが後悔するのは、後にも先にも、これを伝えなかったことだろうと思う。
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