第10話 誰かを救う色

 時計の針がカッカッカッカッと焦げ茶色の音を弾けさせていた。見ると短針が七から八へ移動しようとしている。

 外来の診察なんてとっくに終わったがらんとした待合室で、私はなおちゃんの肩を撫でつつ、看護師さんと共に待ちぼうけをしていた。何を待っているって、なおちゃんたちの両親だ。一向に来る様子がない。

 一応、先生は九時まで居残ってくれるらしいが、念のためということで、なおちゃんに話をした。本来は大人にするべき話なんだけどね、と苦笑いをしていた。

 なおちゃんは中学二年生なので、それに合わせて、柔らかく、シンプルな言葉で話してくれたらしい。わかりやすかった、となおちゃんは言っていた。

 たぶん、お医者さんも察したのだろう。なおちゃんの両親はきっと来ない。

「精神病院か……」

 なおちゃんがぼそっと呟く。

 なおちゃんは香折ちゃんに手厳しい言葉を向けるけれど、お兄ちゃん思いの優しい女の子で、香折ちゃんを精神病院に受診させることはずうっと前からお父さんとお母さんに提案していたらしい。それはそうだよ。人と目を合わせただけで倒れる、なんて異常だ。

 私たちは人と目を合わせる「だけ」なんて言ってしまうけれど、香折ちゃんにとっては人と目を合わせるということは相当ハードルの高いものとなっているはずだ。そういう特性も先生に話したらしい。まあ、今回は一人で倒れていたから、あまり関係ないのだろうけど。

 先生は精神病院の受診を勧めてきた。紹介状も書いてくれるという。かなり順当だから、なおちゃんも納得していたけれど、なおちゃんが納得して解決する問題じゃない。

 香折ちゃんもなおちゃんも、未成年だ。子どもだ。子どもは保護者に守られなければならない。守るというと聞こえはいいけれど、要は保護者の管理下になくてはならないということである。

 香折ちゃんは保護者である両親の許可なしには精神病院を受診できない。ここが最大の難関だ。なおちゃんはそれを憂いている。

「あたしも勧められたけど、あのバカ共が許すかなあ……」

「うーん……」

 私がどうこうできる問題ではないから、渋い声しか出せないんだよなぁ。もどかしい。

「そろそろ、面会終了時間ですから、一度お兄さんのお顔を見て行かれますか?」

「あ、はい」

 どんよりしかけた私たちに看護師さんがそう声をかけてくれる。そういえば、八時過ぎて外を出歩いていると、警察に補導されちゃうんだっけ。

 まあ、救急病棟の特殊性から、面会できるのはなおちゃんだけなんだけどね。私はなおちゃんに、香折ちゃんによろしく、と伝言を伝えて見送った。

 さて、なおちゃんが戻ってくるまで、どうしようか。最悪なパターンは、家に帰ったら、両親が揃い踏みしていることだよね。あの人たちならやりかねないからなあ。

 なおちゃんが糾弾されることは少ない。その分が全部香折ちゃんに向くの、わけわかんないよね。何なの、あの親。

 私の両親はまともでよかった。私が共感覚ということも「特別で素晴らしい特性」だと褒めてくれた。

 香折ちゃんだって、特別で素晴らしい特性を持っているはずなんだけど、何故だか特性に分類されていいような「髪結いが得意」も男子がすると白い目で見られることがある。

 香折ちゃんが編み込みにはまり出した頃、香折ちゃんはあの両親に髪を切られたことがあった。香折ちゃんの髪がアシンメトリーになっていて、ヘアピンで誤魔化していたことがあったんだ。前髪を切られ、ベリーショートになりかけていた。香折ちゃんは泣きそうになりながらも、細かい編み込みにすることで、髪がばさばさにならないようにしていたのをよく覚えている。

 あの頃はなんだかぼうっと見ていたけれど、今思えば、髪を勝手に切るなんて、一種の虐待だ。ただ、まだ私も香折ちゃんも「虐待」の「待」の字も書けないような年頃だった。虐待という言葉自体知らなかった。

「よく洗脳されなかったよな」

 教育や躾は行き過ぎると洗脳になるという。それが当たり前だという感覚になることで、親の行いが傍目からは虐待に見えても、被害者の子どもは全然そんな風に感じていない、という構図が成立する。

 虐待やいじめなどは被害者がそう思ったら虐待やいじめという認定になるという。それでどこからがいじめかというのが曖昧になってくるのが社会では問題視されるけれど、真の問題は被害者が洗脳されて、どこまでいっても虐待やいじめを受けていることを否定する、ということだ。本人がそうだと感じたらいじめ、というのが成立するのであれば、裏を掻く卑怯者たちは「本人がそう感じていないのなら、それはいじめでも虐待でもない」と主張することができる。

 残念ながら、なおちゃんたちの両親は卑怯者たちだ。

 おかしいのは絶対あの人たちなのにな。なんで、こっちの首が絞まらないといけないんだろう。

「美青姉」

「あ、なおちゃん早かったね」

「あんまり話すこともなかったから。寝ちゃったし」

「鎮静剤打たれてるんだっけ?」

「睡眠薬だよ。おにい、早起き、つらかったのかな……」

 なおちゃんの髪が、さらさらととけている。香折ちゃんに結ってもらっていないからだ。香折ちゃんが結ったなら、バレー部の部活の後だって崩れない。

 寝不足などの疲労も香折ちゃんが倒れた原因であるらしい。どうして、私は気づけなかったんだろう。あんなに側にいて、幼なじみだって威張るくらいなのに。

「さ、なおちゃん、帰るよ」

「うん、ごめんね、美青姉。付き合わせて」

「何を言うか。私となおちゃんの仲でしょ!」

 なおちゃんが暗いから、冗談めかしてそんなことを言う。あながち冗談でもないけれど。

 そう、私はなおちゃんたちの両親より、なおちゃんと香折ちゃんのことを理解している。そういう自負がある。事実だと思っている。

 だから、私にできることはないか、じっと考える。なおちゃんも香折ちゃんも好きだから。

「明日は朝、迎えに行こうか?」

「うん」

「やりぃ、なおちゃんと二人きりの水入らずだね!」

「ふふっ美青姉、それはちょっと恥ずかしい」

 街灯に照らされるなおちゃんの顔が赤らんだ。うん、顔色が良くなったようで安心する。

「そういえば、美青姉には青天目の目、黒に見えるの?」

「どしたの、突然。まあ、普通の黒目なんて初めて見たからびっくりしたけど。うん」

 なおちゃんからの藪から棒な質問に首を傾げると、なおちゃんはなんだか満足げに微笑んだ。

 突然青天目くんの名前出すからびっくりしたけど、どういうことだろう?

 なおちゃんは少し躊躇って、俯いて、言葉を紡いだ。

「あのね、美青姉。青天目は黒目じゃないんだよ。結構淡い灰色でね」

「え」

「だから、カラコンなのを疑われたり、目の色でいじめられたりして、大変だったんだって」

「そう、なんだ」

 ショック、というほどではないけれど、衝撃を受けた。だって、私には本当に黒目に見えたから、疑うことすらしなかった。

 なおちゃんが嘘を吐くはずもないし、じゃあ、青天目くんは私のこと変な子って思ったんじゃないかな。そう思うと、胸がそわそわする。

 変な子、というのは言われ慣れていた。実際、私が変な子というのは否定しようがない。青を赤という子が、変な子じゃないわけがない。

 その上、今日、帰り際に渡したのが、ミルメークだったし。普通そこは給食のプリンとかじゃない? ミルメークってなんだ?

 うわ、今頃になって恥ずかしくなってきたな。本当に、何やってんだろう。

「青天目にとって、美青姉が黒いって言ってくれたことは、嬉しいことだったと思うよ」

「ふえ?」

 なおちゃんを見ると、ここじゃないどこかを見つめていた。何を考えているんだろう。

「青天目の目が黒いってことは、美青姉の目には青天目が普通の子に見えたってことでしょ? それって、ずっと容姿でああだこうだ言われてきた青天目からすると、結構救いだと思うんだよね」

 ああ、なるほど。

 なおちゃんがどうして青天目くんに目をかけているのかわかった。なおちゃんと青天目くんは似ているんだ。見た目で人から爪弾きにされてきたこととか。

 茶色い目の子はいても、灰色は浮くだろうからな。淡いなら尚更。なおちゃんの金髪も目立つだろうし、時間があれば、そういう話もするだろう。

 それにしても。

「私の言葉が誰かの救いになるなんて、ね」

「何言ってるの。あたしもおにいも、美青姉の言葉にはたくさん救われてるよ。目が髪と同じ金色って言われたとき、あたし、この髪の色に自信持っていいんだって思えたもん」

 そう語るなおちゃんは強い色の目をしていた。太陽にも負けないくらいの煌めきの色。私が大好きななおちゃんの色だ。それでなおちゃんの心が救えたなら、まあ、それでいっか。

 でも、香折ちゃんはどうかな、というのを私は口には出さなかった。

 もう、なおちゃんの家に着いたから。それに、なおちゃんを不安にさせる必要はないからね。

「じゃあ、また明日」

「また明日」

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