第8話 自己中心の自己嫌悪

「尚弥! やっと来たわね!」

 兄の運ばれた病院に行くと、懲りもせず道中のあたしにも鬼電をしていた母が抱きついてくる。気持ち悪い。

 どうやらこの親は子どもを信用することができないらしい。あれから学校に電話してないだろうな、この阿呆は。

 まあ、いきなり息子が倒れて、救急車で運ばれて、入院となったら、テンパるのかもしれない……普通の親なら。

「もう、香折ってばなんでったって急に倒れたりしたのかしら。部屋に鍵もかけてるし。そもそも部屋に鍵なんてつけなければ、こんな面倒なことにはならなかった。なんて手のかかる子に育ってしまったのかしら。育て方を間違えたわ」

 その言い様に、あたしはかっと頭に血が昇った。全身の血が沸騰したような不快な熱に包まれていくのを知覚する。

 あたしは待合室の椅子を思い切り蹴飛ばす。といっても、固定された椅子はびくともしなかったけれど。

「そうだよ、あんたらは子どもの育て方を間違えた。どうしようもなく間違えた。だから償え」

「な、尚弥……」

 わかりやすく青ざめる母。まあ、脅すつもりでやったからいいんだけど、気分は良くない。

 まるで兄ばかりが悪いかのように言う。兄をそんな風に育てて、手遅れになるまで放置したのはあんたらだっていうのに。

「あたし言ったよね? 何回も、何回もさ、おにいを病院に連れてけって。あたしの言葉に耳も傾けないで、おにいの精神状態を悪くするばっかのあんたらのせいだろ!」

「精神状態と体調は関係ないでしょう」

「あるわ! 昔から病は気からっていうし、最近の医学ではそれが証明されてる。ちゃんとニュースとか見てる? ネットとかで調べてる? 時代も変われば常識も変化するんだよ?」

 気づいたら、母の胸ぐらを掴んでいた。それくらい、虫の居どころが悪かった。

 親というか、こいつはもうなんだか人間とすら認識できない何かだ。視力が悪くなったわけじゃないのに、背の低い母の顔を眼前まで近づけないと母だとわからないくらい、あたしはこの生き物が自分の母親だと認識することを拒絶していた。

 こんなのがネットニュースを見ているわけがない。見ていたら、自分が世にいう「毒親」だということに気づかないわけがない。……いや、あたしと兄の名前を性別錯誤させるような人たちだ。見た上でわかっていないのかもしれない。

「なお……、くる、し……」

「おにいだって苦しかったろうよ」

 あたしは母を椅子に投げつけた。

 自分のことも嫌になる。暴力的に振る舞って、自分のフラストレーションを発散しているだけなのだ。浅ましい。

 けほ、と母が空咳をこぼすのを冷めた目で見ながら、あたしは兄の病室について聞いた。

「まだ目を覚まさないから、面会はできないわよ」

「いいよ。病室がどこかくらい知ってなきゃいけないでしょ。お父さんもお母さんも、おにいのためなんかに仕事を休めないもんね」

「ええ」

 多量の毒を込めて放った言葉に頷かれ、あたしは拳をぎり、と握りしめる。母が音にひっと声を上げた。胸ぐらをついさっきまで掴んでいた娘だ。殴ってきてもおかしくないと思ったのだろう。

 なんでよ。なんであたしも兄もこんなやつら相手に我慢しないといけないの? それが正しさで、正しさに沿えないなら死ねっていうんなら、正しさの方が死ねよ。

 まあ、いくらなんでも親に死ねとは言わないけどね。

「とりあえず、焦ってたんだろうけど、鬼電や学校への直電はやめてよ。学校側に迷惑かかるんだから」

「でも、尚弥が出てくれないから……」

「そりゃ授業中は電源切ってないと先生に没収されるもん。メールなりメッセージなり送ればいいでしょ」

「あ……」

 本当に焦って色々頭からすっぽ抜けていたらしい。だからといって、行いは許せたものじゃないけれど。

 母も母なりに兄のことを心配しているのだろうか、心のどこかで。……そう思うことにした。

 どんなに嫌でも、飲み込まないと、話が進まない。あたしは深呼吸を数回してから、母と話した。

 父は今日は重要な会議があるため外せなかったらしい。管理職なんだっけ。ぼんやりと大変だな、とは思ったけれど、それは免罪符にはなり得ない。

 兄は意識不明で、熱が上がっている状態。それくらいしかわからないらしい。ただ、命に別状はないとのこと。解熱剤を投与して様子見をしているのだとか。

「お母さん、半休を延長してもらってるから、職場に行かなきゃ」

「待って、休みじゃなくて半休なの? なんで?」

「従業員不足なの。ほら、ニュースになってるウイルスで」

 ああ、流行り病があったな。もしかして、兄もそれだろうか。

「帰り足に伯父さんからサインもらってくるから、尚弥は私の代わりに香折が目を覚ますのを待っていて」

 あたしは呆然とする。

「別に病院から連絡もらえばいいじゃん。なんであたしを呼んだの?」

「電話が来てもすぐには来られないのよ。それじゃあ」

「待って」

 母はあたしの制止も聞かず、そそくさと去っていってしまった。

「…………は?」

 なんなの、一体。あれが親?

 あたしは泣きたいようで、泣きたくないような奇妙な気持ちを胸に抱えた。あの人たちにとって、あたしや兄ってどういう存在なんだろう? いたら便利くらいの道具みたいな扱いじゃない?

 別にあたしに学校を早退させる必要なかったじゃない。あんたが息子のところより仕事に行きたかったからあたしが呼ばれたと? あたしがいたところで、未成年だし、何の権限もなくて、書類を書くこともできない、下手をすれば面会とかで年齢制限に引っかかるかもしれないのに。

 役立たずには役立たずをあてがえばいいとでも思っているのだろうか。

 私たちがいないとなんにもできないんだから、しょうがない子たち、なんて溜め息を吐いて微笑むための装置にされている? それが親らしさ、保護者らしさだと勘違いでもしているのだろうか。

 やるせなさと怒りを越えた殺意が喉の奥から込み上げてくる。それは声にならなくて、あたしの体を震わせた。

「島﨑さーん、島﨑香折さんのご家族の方、いらっしゃいますかー?」

 看護師の声にはい、と返事した。看護師があたしを見てひっと悲鳴を上げる。鏡を見ていないけれど、あたしはよっぽどひどい顔をしていたのだろう。上手く笑えない……のは、いつもか。

「お母さんは?」

「一度職場に行きました。あたしは香折の妹です。兄の容態が変化しましたか?」

「はい。お兄さん、目を覚まされましたよ」

 看護はサービス業とはよく言ったものだ。あたしへの怯えを引っ込めた看護師はにこやかに対応する。母が職場に行ったという言葉で事態を察したのだろう。

 それに、兄が目を覚ましたというのは吉報だ。吉報は笑顔で伝えてなんぼである。

 看護師に案内されて、病室に向かう。その途中で、小さく看護師に聞いた。

「あの」

「どうなさいました?」

「看護師さんは、お子さん、いますか?」

「はい。三歳と五歳の子が。やんちゃ盛りで大変ですよ」

 大変、と言いつつも、その笑顔には温みがあった。父や母が決して見せないものが。

「……もし、お子さんが救急車で運ばれて、自分の勤め先じゃない病院に行ったとしたら、その……看護師さんは、どうしますか?」

 すごく気まずかった。こんなこと聞くべきじゃないのかもしれない。あたしがあたしの両親が「おかしい」と断定したいから、他人から得たい言葉を得ようとしている。そんな後ろめたさが背中を這いずって、あたしの耳元で嘲笑うような気がした。

 看護師さんは間を置かずに答えた。

「そりゃ、休みますよ。仕事がよほど立て込んでいなきゃ。……まあ、仕事を言い訳にしたくないですけどね。どれだけ生意気でもやんちゃでも、自分の子どもが死ぬかもしれないってなったら、正気でいられません」

「そう、ですよね……」

 あれ、なんであたしは落ち込んだ声を出しているんだろう。看護師さんの言葉は、あたしがまさしくもらいたかった言葉に相違ないのに。

 ……本当は、知りたくなかった。思い知りたくなんて、なかった。自分の親が異常だなんて思いたくなかった。ムカつくけど、それでも、本当は断定なんてしたくなかった。

 救われたかったんだ。

「お兄さんが意識を取り戻してよかったですね。原因はわかりませんけど、命が一つ助かったのは事実です」

「……、はい、ありがとうございます」

 思うより、淡白な声が出て、自分が嫌になる。

 母に当たり散らしたけど、それは全然兄のためなんかじゃなかった。あたしはあたしのために怒っていた。あたしの怒りの感情を発散するためだけに暴力を振るった。

 兄が目覚めてよかったのか、あたしにはわからない。というか、兄が目覚めたことを素直に喜べない自分がいた。

 いっそのこと、そのまま死んじゃえば、これ以上苦しむことがなくて済んだんじゃない?

 油断すると、そんな言葉が口から零れそうだ。これだって、兄の苦しみのことを指しているのではなく、親と兄の間に挟まれるあたしの苦しみのことを思っている。

 最低だ。

 病室にはすぐ着いた。

「島﨑さん、入りますねー。妹さんがいらしてますよー」

「なお、や……?」

 兄の声がして、あたしはたまらない気持ちになった。

 足に力が入らなくなって、どさりと崩れる。涙が頬を伝っていくけれど、声は出なくて。

「大丈夫ですか?」

 看護師に助けられて、あたしは来客用の椅子に座った。兄は心電図や点滴に繋がれて、ベッドに寝転んだままだ。

「……輸血パック?」

「先生がもしかしたら貧血もあるかもしれないとのことでしたので」

 貧血も、ということは、貧血だけが原因ではないらしい。

「おにい、大丈……夫、じゃないよね。なんて言えば……」

「な、おや……」

 兄はこちらを見ていた。巧妙に目が合わないようにするのは相変わらずだけど。

「心配、かけた、ごめ……」

「謝んないでよ」

 誰も心配なんかしてないから、とはさすがに言わなかった。人の心がなさすぎる。

 あたしはかなり打ちのめされていて、自分は自分のためにしか怒れなくて、我が身可愛さで兄のところにいるのだ、と自己嫌悪していた。

 聡い兄はそんなあたしに、いつもと変わらない微笑みを浮かべる。

「なお、だいじょぶ? とさ、や、かさ、にひどいこと、されてない?」

「ひどいことされてるのはおにいの方でしょ。馬鹿なの。今は自分の心配だけして!」

 なんか一周回ってキレてしまった。あたしはしまった、と思ったのだが、何故か兄は笑んだままだ。

「よかっ……なお、少し、顔色、よく……」

「喋んなくていいから、休んで」

 この兄、倒れておきながら、あたしの心配なんてしている。兄が一番具合悪いんだから、もっと自分のことだけ、自己中心的に心配すればいいのに。お人好しめ。

「休んで。あと、良くなったら、美青姉にお礼言うんだよ。救急車呼んでくれたの美青姉なんだから」

「うん……ごめん……」

 謝るな、と言おうとしたが、兄はまた意識を失ったようだ。

 あたしはくそでかい溜め息を吐く。看護師さんが優しげな眼差しであたしを見ていた。

「兄妹仲はいいようでよかった」

「……どこをどう見て、そう思ったんですか……」

 両親よりはマシ程度なレベルだ、あたしなんて。ちょっとやそっとで取り乱すという点では母と同じレベルかもしれない。

「ちゃんとお兄さんのことを心配しているでしょう。それに、香折さんの寝顔、先程よりも安らいでいますよ」

「そうですか……」

 それだけで、いいのかな。

 あたしで、いいのかな。

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