第6話 あたしがおかしいの?

 一時間目はしっかり休んで、二時間目から授業に戻る。体調は悪いっちゃ悪いが、家に帰りたくなかった。兄のことは心配だけど、あの毒親共はたぶん素直にあたしを兄に会わせる気がないと思う。

 それに、あたしが体調を崩したのを心配して、兄が心配されなくなる可能性は大いにあり得る。そんなことになるくらいなら、這ってでも授業に出た方がマシだ。

 あたしが教室に入り、席に就くと、てんやわんやとあたしの周りにクラスメイトが集った。主に女子。

「島﨑さん、お兄さんが救急車で運ばれたって!?」

「意識不明って聞いたけど大丈夫なんですか?」

「私、すっごく心配で」

 兄が女子に人気なのはまあいい。だが、ここじゃ誰もあたしの心配はしない。付き合い悪いから、心配も何もないんだけど、こちとら保健室で一時間休んだんだぞ。もうちょっと気遣え。

「おにいが運ばれてからどうなったかはまだ連絡来てない……」

 あたしは唇を引き結ぶ。兄が死んでしまうかもしれないなんて、今最も現実に近いであろう不安を口に出すことはできなかった。口に出したら現実になってしまいそうで怖いし、いつも塩気強めの対応をしているあたしがここで弱音を吐いたら、ここにいるクラスメイトの面を被ったハイエナ共はあたしをネタにすること請け合いだ。ブラコンと言われる未来が見える。

 腹が立つ。こんなときにまで強がらなきゃ生きていけない自分に。そんな環境を生み出すクラスメイトに。本当に苛立つ。あたし自身になんか、ミリも興味ないくせに、話しかけてくんなよクソアマ共。

 家もクソだし、学校もクソだ。本当、あたしはどうすればいいのやら。数学教師が入ってくると、たむろしていたやつらは蜘蛛の子を散らすように席に戻っていった。

 授業が始まる。が、授業の内容が全然頭に入ってこない。大切な公式についての説明のはずだが、耳が滑るというか、言語を脳が認識しないで素通りしていく感じというか。教科書の問題をノートに写してみても、全然計算式が浮かばない。シャーペンが無意味に「=」の斜め下をつつくのみだ。

 指名された生徒の解答も全然頭に入ってこない。けれど、それで上の空とか不真面目とか思われたくないから、なんとか、その解答をノートに写した。こういうときに限って途中式が長くて苦労する。

 数学以外の授業もそんな感じだ。全然身が入らない。身が入らない分、丁寧に板書をして、なんだかいつもより字が綺麗な気がする。何得だよ。

 教師たちは兄のことを耳にしているからか、誰一人としてあたしに当てることはなかった。それは有難いのだが、同時に誰一人としてあたしの心配をする者はなかった。教師が心配してくれたなら、あたしは気を引き締めるなり、保健室に行くなり、何か切り替えができたはずなのに。

 それとも、あたしに授業を課したいから、そういう振る舞いをするのだろうか……なんて、さすがに自意識過剰が過ぎる。これで放課後までとか心が保たない。でもやっぱり家に帰りたくはない。

 そうして昼休みを迎えた。スマホの電源を入れると、親から鬼電が入っており、メッセージアプリもあるのに頭悪……とげんなりした。と思ったら思い切り電話が鳴る。

「もしもし」

「もしもし尚弥!? 全然出ないから何かあったのかと」

「いや、学校だから電源切らなきゃだし。というかおにいは?」

「そんなことより早く帰ってきなさい!」

 ぴき、と脳内で何かがひび割れる。そんなこととはなんだ。兄の容態を伝えるためにあたしに鬼電していたわけではないのか?

「体調不良でもないのに早退できないよ。っていうか昼休み中だから簡潔にお願い」

「香折がよりにもよって入院することになったのよ!? 信じられないわ!! 準備手伝って!!」

「意識不明の熱ありで運ばれて入院にならない方が信じられませんよ、お母さん。今までおにいにはノータッチだったんだから、入院の準備くらいしたらどうなの?」

「連帯保証人のサインもらいに行かなきゃならないの。親戚が遠いの知ってるでしょ? 仕事だって休んじゃったし、散々だわ」

 仕事休んじゃった? 何言っているんだ、こいつ。息子が倒れて救急車で運ばれたんだぞ? 普通は仕事無理にでも休むだろ。なんで不本意そうなんだよ。なんで生きるか死ぬかの瀬戸際かもしれない息子のことを厄介者みたいに言えるんだよ。

 連帯保証人なんて後からでもいいだろ。というかあたしを何に使う気だ。学生は学業が仕事なんだが、それを休めと?

「あーっ、もう! 今日はキッチンもごたごたしてるし、洗濯物も溜まってるし、洗面台は汚いし、何なのよもう! お父さんは普通に仕事行くし!」

 休めよ、父。

 というか、気づいてなかったのか。朝、当たり前に干されている洗濯物、早起きして回しているのは兄だ。兄は必ず食べ終わったら食器洗いを後回しにしないまめな人だし、髪弄りで散らばった髪の毛はもちろん、洗面台の汚れもいつもぴかぴかにしている。両親に怒られないように。

 ……あたしも、兄に頼りすぎだった。でも兄は目を合わせないではいるけどいつも誠実な声で言うんだ。「尚弥は部活あるんだし、気にしなくていいんだよ」って。

 兄は家事手伝いの領域を越えてほぼ家事の全てをこなす人間だった。それを兄は「自分が好きでやっている」というが、絶対に「やらされている」の間違いだ。

「小学生のお兄さんならこれくらいできるでしょ!」

 そんなことを言われ続け、兄は自分を洗脳した。

 親はあたしには何も言わない。兄にばかり当たる。最近はそれを謝っていたけれど、ただの化けの皮だった。本当は兄に申し訳ないなんて、一ミリも思っていないのだ。

「おにいばっかがやって、お母さんができなくなっただけの自業自得じゃん。何言ってんの?」

「あいつが私から仕事を奪ったのよ! 家事は昔から女の仕事で」

「そんなこと言ってるからお父さんが休み取ってくれないんでしょ! おにいにしつこく家事やれって言ってたのはどこのどいつだよ」

「意味わかんないわよ、何言ってるの!?」

「それはこっちの台詞だっつの!! 無駄話しかしないなら切るね」

 ぶつっと電源ボタンを押してやる。ふう、と短く息を吐いた。周りからの視線が痛いが仕方ない。半ば怒鳴り合いだったからな。

 やっぱり、家に帰りたくない。そう思っているとすぐさままた電話。思わず着拒したくなる。

「尚弥、お願い、帰ってき」

「五月蝿い!」

 ぶつっ、ぶうううううん。

 秒でかかってくるの怖い。もう電源切ろう。

 はあ。下手にスマホの電源も点けられなくなった。母は怒るとヒステリックになるから、父もそこは苦手なようで、母のご機嫌取りを忘れない。それで、端から見るといい夫婦に見えるのだろうか。

 いいや、実際に夫婦仲はいい。結婚記念日は毎年欠かさず夫婦水入らずだし、いい年して、子作り目的はもうないだろうが、やることはやっている。たぶんそれの相性が良くて好きなんだろうな、お互いに。

 母は休まなかった父のことをあたしに愚痴ったが、父が帰ってくれば父に滅茶苦茶甘えるのだろう。それはジャンボパフェより胃もたれするくらいに。

 気持ち悪い。気持ち悪い。髪結いが好きな兄のことを気持ち悪いとあの人たちは言うが、お前が言うか状態である。一応あたしたちは思春期という「お年頃」な時期なわけだが、そこへの配慮はないのだろうか。

 などと考えていると、教室の扉がぴしゃんと開いて、青天目が入ってくる。

「尚弥先輩、います?」

「どうした、青天目」

 あたしが扉の方へ向かうと、青天目は茶目っ気のある笑みを浮かべた。犬みたいなやつだな、と呑気でいられたのは一瞬で、青天目は言いづらそうに口を開く。

「先生からパシられました。尚弥先輩のお母さんが、学校に電話かけてきて、尚弥先輩のこと呼んでいるらしくて」

「うわ」

 あたしはさすがに吐き気がした。それは所謂モンスターペアレントではないか? 他者に当たるわけでなく、身内相手だからモンスターではないのだろうか。

 世間一般はともかく、今のあたしにとってモンスターなのにはちがいない。教師たちを困らせるのも悪いし、あたしは溜め息を一つ、職員室に向かった。

 向かいながら、別に入院の準備ってそんなに大変じゃなくね? と思う。着替えは病院の服を借りればいいわけだし、強いて言うなら下着くらいだろう。

「失礼します、二年三組の島﨑尚弥です」

「おお、島﨑、待ってたぞ」

 担任だったかうろ覚えの男性教師が、受話器をあたしに差し出し、保留の二番を押した。え、説明なし?

「んじゃ、後は頼んだ」

 と完全丸投げで煙草しに行ってしまった。いやいやいや。

「尚弥? 尚弥なの? 親からの電話をぶつ切りしたり、スマホの電源切ったり、私の苦労を知ろうともしないで」

 ほざく母に、あたしは受話器に向かって怒鳴り散らした。

「いい加減にしろよ、この阿婆擦れが!! 自分の苦労がわかってもらえないって、じゃあてめえはあたしやおにいの苦労を知ってんのかよ!! あたしに繋がらないからって学校に電話してくんのが非常識ってわかってんの? この恥知らず!!」

「なっ……でもこれは緊急の連絡で」

「だったら親父にかけろよ!! 子どもに負担かけんな!! じゃあな!!」

 がしゃん、と受話器をあるべき場所に収める。職員室はしん、としていた。言葉遣いが最悪だった自覚があるので気まずい。

 正論は人を追い詰めるらしいが、兄を追い詰めたこの人たちだって、少しは追い詰められればいいんだ。仲良し夫婦で解決すればいいだろう。何故あたしを頼るのか、意味がわからない。

 しんとした職員室にコール音が鳴り響く。あたしも含め、全員がびくりと肩を跳ねさせた。心当たりが一つしかないからだ。

 腹を決めたらしい誰かが受話器を取り、電話向こうと数回やりとりをして、電話を切った。あの母を鎮めたのだろうか。すごい先生だな。

 一瞬浮かんだ畏敬の念は一秒も保たずに散った。

「島﨑、お前、もう帰れ」

「え」

「これでまた電話をかけてこられたら学校の業務に支障をきたす。だからもうお前は帰れ。お母さんには帰らせると伝えたから」

「……は?」

 何を言っているんだ、こいつは。

「お兄さんが入院して、大変なんだろう? 手伝ってあげなさい」

「島﨑のところはご両親が共働きなんだよな。急に休みを取ることになって、お母さんも大変だろう」

 なんで。

 なんでそっち側のフォローに回るの?

 あんたらそれでも教師か? 生徒の味方じゃないのか? さもいい提案をしている風を装っているが、処理が面倒くさくて投げただけだよな?

 何なの? あたしの周り、こんなんばっかり。さっきの煙草教師と言い、なんで誰一人として、あたし側の味方がいないの? あたしがおかしいの?

「帰りたく、ないです」

「いや、帰れ」

「せっかく学校来たのに、なんで自己都合みたいな感じで帰る流れになるんですか?」

「実際自己都合だろう」

「あたしの都合じゃありませんよ」

「じゃあ、困ってるお母さんやお兄さんを見捨てるのかい?」

 大人は、往々にして卑怯だ。その卑怯さを今、まざまざと味わっている。

 どうして、こうなるんだ。あたしがおかしいのか?

 どうして、どうして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る