第4話 ルーティンのない異変
朝。
「おにい、起きてない?」
時計を見て、少し驚く。もう七時を回っていた。兄は五時半には起きて朝勉強をして、六時頃にあたしを起こしに来る。あたしに関しては自分で起きろよ、という話なのだが、いつもの髪の編み込みする時間がないとなんだか落ち着かない気分になる。
残念ながら、あたしは兄のように器用な編み込みはできないし、早くもない。ポニーテールがせいぜいだ。
仕方がないので髪を結い上げ、兄の部屋に向かう。兄は繊細で用心深く、個人の部屋を与えられてからは自分の部屋の鍵を必ずかける人だ。誰も兄の部屋なんか訪ねないのだけれど、あたしが兄の部屋に入ったとき、兄は秒で鍵を締めていた。理由を聞いたら「そうしないと怖いから」だそうだ。
兄は家族を敵だと思っているのだろうか。……思っているのだろう。兄は敵意なんて出せるようなやんちゃな性格をしていない。そういう人が取るのは攻撃や反撃ではなく、防御行動だ。自分の部屋というわかりやすい外郭の内に閉じ籠ることで、兄は心の安寧を得ている。
色々思うところはあるが、兄の部屋の戸を叩く。
「おにい、起きてる?」
「……」
扉の向こうからは沈黙しか返ってこない。もしかして、もう朝食に向かったのだろうか。いや、あり得ない。髪結いだけが生き甲斐のような、休日でも欠かさずあたしの髪を結っていく兄が何も声をかけずにあの毒親共に一人で会いに行くなんて。
あたしはそっとドアノブに手をかけた。禁じ手ではあるが、これで鍵が開いていたら、兄は部屋にいないということだ。
がちゃ、がちゃちゃ。
「鍵、かかってる。おにい?」
部屋の鍵は内側からしかかけられない。ということは中にいるはずなのだが、いくら呼んでも返事がない。
「えっと、そうだ、スマホ!」
兄のスマホに電話をかける。しかし、中からはコール音すらしない。
「おかけになった番号は、圏外か、電源がオフになっております」
女性アナウンスが親切に教えてくれた。バッテリー切れというやつだろう。
あのまめな兄が? 充電を忘れたりするだろうか。あたしはもやもやとする。
この場合、兄の安否をいち早く確認しなければならないが、頼れる大人であるはずの両親のところへは行く気がしない。
あたしは両親が兄のことを叱り続けているところばかり見て育った。兄が他者の存在を怖がるのは、他者と同じ空間にいるだけで訳もわからず怒られた経験が何度もあるからだ。近くで見ていただけのあたしの気が滅入るレベルで。
両親はそれを躾だと言った。あたしが止めても聞いてくれなかった。あたしにはそんな躾方しないくせに。……あれ、それはつまりネグレクトという虐待なのでは? ──それはさておき。
両親を召喚するのは兄のトラウマを刺激して良くないと思う。だが、両親に頼らざるを得ない。それならせめて、とあたしはスマホでまた電話をかけた。
数分後、ピンポーン、とインターホンが軽快な音を立てる。両親が出てくれたようだ。やがて、ボブカットの少女が上がってくる。
「やあ、なおちゃん。香折ちゃんが出て来ないって?」
「ありがとう美青姉」
こういうとき、美青姉しか頼れる人がいないあたしと兄の交友の狭さに涙が出る。しかし、友達を作ろうとは思わない。兄もそうだが、あたしもまた、人と関わることにとことん向いていないのだ。
ただ、美青姉がいれば、兄が混乱したときのリカバリーもできるだろう。美青姉とすら目を合わせられない兄だが、美青姉とは他の人より話しやすいみたいだから。
美青姉が何か言ったのか、両親も階下からやってくる。あたしは身を固くした。そこでああ、と内心苦笑する。あたしも両親のことが苦手なのだ。
「香折がどうかしたの? 尚弥」
「顔見ないと思ったら、まだ寝てるのか」
父が顔をしかめていて、あたしはぎくりと固まり、言葉が出なくなる。父がこの顔をするとき、声色が少し低くなったとき、父が説教をすることは細胞に刻み込まれていた。無意識に「また来る」と体が備える。
美青姉はあたしの肩にぽん、と手を置き、両親に向かって和やかに微笑んだ。
「そうなんですよー。電話にも出なくって。具合悪くしてたらいけないなーって。ね、なおちゃん」
「……うん」
あたしは頷くのが精一杯だった。兄だけだと思っていたが、あたしも両親のことが苦手らしい。先ほど美青姉を呼ぶまでの過程は全部そのままあたしにも当てはまるわけだ。兄ほどじゃないにしろ、あたしもこの人たちが怖いらしい。
兄よりマシなのは「女の子だから優しく」されていることだろう。なんて浅ましい。
「おにい、内鍵かけてるから……」
「そうだったのか」
「え」
父の口から出た驚嘆の言葉にあたしは目を丸くする。
兄は別に、部屋に鍵をかけていることを隠していない。個人の部屋を持つときに内鍵をつけてほしい、と言ったのは兄の数少ないわがままだ。それを聞いて、内鍵を取り付けたのは父……いや。
よく思い出すと、父も母もそれを了承しただけで、鍵の取り付けは兄が小遣いはたいて自分で行っていた。兄は父や母から呼び出されないように夕食のときは予め台所で手伝いをし、誰に言われなくても宿題や予習復習をする子どもだ。だから、両親は兄の部屋を実際に訪れたことはない。
「外側から開けられないなら、壊すしかないか」
「まったく、手のかかる子ね」
「ま……待って」
両親のやりとりに不穏さを覚えたあたしはカスカスの声で二人を止めた。美青姉が震えるあたしの手をそっと握ってくれる。
この毒親たちが一番最初に兄に対面するのは良くない。兄が寝ていても、起きていても。
「扉破るくらいなら、あたしやるから」
「でも、尚弥は女の子でしょう?」
だったら尚弥って男みたいな名前はなんだよ!!
あたしは怒鳴り返したかった。返せるものなら。けれど、体が震えるだけで、声なんて出ない。
言えない。あんたたちが悪影響だからあたしにやらせて、なんて。反抗期だと思われるかもしれない。
……は?
何考えてんだろう、あたし。あたしは中学二年生。反抗期が来てもおかしくない年頃だ。だというのに、どうして「反抗期だと思われるかもしれない」だなんて怯えているのだろう。どうしてあたしを庇護するはずの両親に怯えなければならないのだろう。
そこまで考えたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。あたしは苛立ちのような、諦めのような感情に任せて、ドアに体当たりする。
「ちょっと尚弥! 怪我したらどうするの!」
「お母さんこそ」
あたしの代わりに、美青姉が二人を止めて、言い返してくれた。
「中で香折ちゃんが倒れていたら、どうするんですか?」
ああ、いいな。美青姉ちゃんとあたしが言いたいことを言ってくれる。本当に呼んでよかった。
「そんなの心配のしすぎよ」
「ただの寝坊だろう」
「……香折ちゃんは、そんなにだらしのない子でしたか?」
がっ
「そんなだらしのない子にあなたたちは育てたんですか?」
がっ
「私は、香折ちゃんが遅刻しているところなんて、見たことがないんですけど、家ではそんなに怠けているんですか?」
がっ
「な、いきなりなんだ。失礼だぞ!?」
「私が失礼なら、あなたたちは無礼ですよ」
開いた。
あたしは脇目も振らずに部屋の中に飛び込む。兄はベッドの上ではなく、床に倒れていた。急速に自分の中の血の気が引いて、それから故障したようにぶわっと熱くなるのを感じた。
落ち着け、落ち着け。保健体育の授業で習ったのと同じことをすればいい。救命救急。まず倒れている人がいたら、意識の確認。
「おにい、おにい」
顔を耳に近づけて呼び、俯せの兄の体を仰向けにする。兄は目を閉じていた。あたしが何回呼んでも目を覚ます様子はない。
気道を確保しつつ、次は呼吸の確認。口元にあてがう手が震える。息をしていなかったらどうしよう、という想定に。
ほんのり温かい息が手に当たってほっとする。が、意識はない。額に触れると……熱い気がする。
「おにい熱ある」
「なんだと!?」
父の大声にびくんと心臓ごと肩が跳ねた。人の大きい声なんて、学校にいればよく聞くのに、父と母のそれは苦手だ。
そんな中、両親をいなしていた美青姉は冷静にスマホを取り出す。
「救急車呼びましょう」
「熱くらいで大袈裟な。寝ていれば治るだろう」
「意識がないんですよ?」
「ただの風邪だ」
「風邪かどうかを診断するのは医者です」
「ああ言えばこう言うね、君は」
父の声の苛立ちが高まるのを肌で感じる。あたしはもう顔を上げられなかった。父が怖い。
それに対して美青姉は果敢だ。
「少なくとも、病院に行くべきです。医者に診察してもらわないと」
「目が覚めてからでいいだろう」
「目が覚めなかったらどうするんですか!」
美青姉の悲痛な叫びに、あたしは泣きそうになる。
兄のことはあんまり好きじゃない。人の目を見て話ができないろくでなしだと思う。けれど、死んでほしいなんて思わない。
もし、このまま兄が目を覚まさなかったら? ──その想像にあたしは鳥肌が立った。こんな両親の元で、ひとりぼっちになるの? あたしは。
なんて、あたしの思考回路もだいぶ自己中心的に死んでいる。どんだけ親が怖いんだよ。自分でも呆れる。
「そんなのは考えすぎだ」
やはり、父はそう言った。
知っていた。そういう人だ。父は昭和堅気な人で、何故だか男児は皆平等に頑丈なものだと勘違いしている。その勘違いで、兄が壊れたことなんて知らないみたいに振る舞う。とんだ馬鹿親がいたものだ。
美青姉はそれに言い返さず、とたた、とスマホをタップする音が聞こえた。繋がった電話の向こう、男性の声が微かに聞こえる。
「はい、救急ですか、消防ですか?」
「救急です」
両親が飛び上がらんばかりに驚いて、美青姉を止めようとするのに、あたしが割って入った。
「なんで止めるの、尚弥!」
「それはこっちの台詞だよ。なんで止めるの? おにいが大きい病気だったらどうするの? ただの風邪じゃなかったらどうするの? おにいが死んじゃったらどうするの?」
「死ぬだなんて、大袈裟な……」
あたしはきっ、と母を睨んだ。
「もしあたしが同じ状態になったとして、あんたらは『大袈裟だ』って言って放置するの!?」
ひっと母は息を飲んだ。父も何も言えずに俯く。
あたしの目から、ぱたぱたと何か液体が落ちて、床を濡らした。
「そんなお父さんとお母さんのところで、安心して暮らせないよ……あたしのことは大事にしているかもしれない。あたしのことは大事にするかもしれない。でも、おにいをこんな状態で放っておこうとするお父さんとお母さんを、あたしは信じられないよ」
これは、あたしがおかしいの?
そう紡げたかどうかわからない中、少し遠くで救急車のサイレンが鳴り始めた。
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