第3話 多様性も全て悪いわけでなく

 兄は美青姉と一緒に帰る。あたしは部活だ。

 この学校では部活は義務ではない。世の中は多様性の時代。部活を「しない」という選択肢を取り入れることも多様性の一つだという。

 まあ、やりたくもないことをやるよりは健全だろう。もし、部活動が義務的なものだったら、また兄は両親からああだこうだと言われたはずだ。見ているこちらの気が滅入る。

 兄が人の目を見ることができなくなった原因である両親の教え。それは「人の話を聞くときは人の目を見てちゃんと聞け。人と話をするときは人の目を見て話せ」という一見すれば、当たり前のようなものだ。けれど、兄はそれを言われすぎた上に、できなかったら折檻されていた。顔を殴られたり、腹を蹴られたり。多様性云々を抜きにしても普通にやりすぎの虐待では? と思う。だが、通報しても無駄だと、兄はそのよく回る頭で察していた。

 子どもに暴力を振るうことを「躾」と言い張り、児相の捜査から逃れているDV一家の話なんてそこら中に散見している。ましてやうちは普段から折檻されているわけではなく、兄が人の目を見て話をできなかったとき限定だ。「躾」と主張されてしまえば、児相は役立たずになってしまう。

「でも、おにいがつらそう」

「大丈夫だよ、尚弥。僕が悲鳴さえ上げなければ、大事にならなくて済むから」

 小学校に入ったばかりの頃、あたしを心配させまいとそう微笑んだ兄の言葉。今思い出すと腹が立つ。「自分が我慢すれば全部穏便に済む」などという傲慢な考え方をしていたのだ。

 兄の代わりに通報するには、あたしには知能が足りなかった。そのことにも腹が立つ。あたしたちは親という名前の大人に利用されているだけじゃないか。抵抗できないようにじんわりと、外堀を埋められて。今は反省しているようだが、親のせいで兄は人の目を見ると気絶するほどまでに状態が悪化した。

 それは明らかにおかしい。異常だ。けれど、兄は精神病院に行くことはなかった。全然平気じゃないのに「平気だから」と言って。

 だからあたしが親に訴えた。兄を精神病院に行かせた方がいい、このままだと普通の生活を送るのも難しくなる、と。あたしの言葉なら、聞いてくれるだろうと期待した。それはあたしの傲慢でもあった。

「別に、生活に支障は出ていないだろう?」

「人と目を合わせられなくても、コミュニケーションは取れるし」

 そのいっそ清々しいばかりの手のひら返しに、あたしはそのとき暴れた。我慢ならなかった。手についたものを全部親に向かって投げた。親は呑気に「反抗期?」なぞとほざく。更に腹が立って、ガラス張りのショーケースを素手でぶち壊した。

「尚弥、あなたの方が病院に行くべきだわ。お兄ちゃんのことを気にして、こんなになって」

「五月蝿いっ! 五月蝿い五月蝿い五月蝿い!」

 ガラスの丈夫そうな灰皿を床に叩きつけた。鈍い音がして、父も母もびくんと怯え、それ以上、あたしに何も言わなくなった。

 なんでこの人たちにはわからないんだろう。あんたたちが異常なせいで、兄はおかしくなってしまった。今は人の目を見られなくても支障はないかもしれないが、人の目を見るだけで気絶するなんて症状、この先絶対苦労するに決まっているのに、どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう。その上、兄にあれだけ厳しく言いつけていたことを、簡単にひっくり返して。あたしがおかしいみたいに言って。

 あたしはどうしたらいいの?

 やるせなさがあたしを苛んだ。

 このことは美青姉に共有してある。幼なじみだから、というのもあるが、美青姉は兄のことをとても気にかけてくれる数少ない信頼できる人だからだ。

 美青姉が「香折ちゃんのことは任せて!」と言ってくれたとき、どれだけ心強かったことか。美青姉がついていてくれるから、あたしは安心して部活動に打ち込めるのだ。

 体育館に行くと、一年の生徒がフロアをモップがけしていた。あたしも去年やっていたことだ。この文化も正直おかしいと思う。

 一番年下のやつらが、床掃除やネットの準備をしなければならない。多様性の時代と言いながら、令和のこのときに、昭和の考え方のままのことを生徒にやらせる。多様性を重んじたいのか軽んじたいのか、あたしにはわけがわからない。

 あたしが早めに来て、モップがけをしていたら、先輩に怒られた。後輩の仕事を奪うな、と。

 モップがけや諸々の準備は、早く来たやつがやればいいと思うのだが、あたしの考え方がおかしいのだろうか。あまりにもしつこく注意されるので、あたしは遅めに部活に顔を出すようになった。

「お願いしまーす」

 と挨拶をして体育館に入り、集まっている面々のうちの一人の顔を見て、うげ、と顔が歪む。人の顔と名前が一致しない残念記憶力のあたしでも、さすがにその日見た顔は忘れない。もじもじ女子を煽っていた一人が、バレー部の部員だった。

 というか、部活の仲間の顔すら覚えられていないのか。と自分に失望したのも一瞬。「島﨑だ!」とそいつに目敏く見つけられ、あっという間にゼロ距離に。エグい距離の詰め方をしてきたそいつは、あたしと肩を組み、好奇心を隠しもしないで直球に切り出す。

「ちょっとちょっとぉ、あずさの告白はどうなったの~?」

 うざ。

「明日本人から聞きなよ」

「えー、島﨑付き添ったんでしょー! そんな釣れないこと言わずにー」

 こういうやつの相手は疲れる。人のプライベートなところに躊躇いなく土足で踏みいる馬鹿な女子。それが友達ということだと勘違いしている阿呆。

 というかあたしに聞くか? 一応告白されたのあたしの兄なんだが。OKでも駄目でもあたしがそれなりに気まずいとか、考えないんだろうか。

 それに、言ってしまっていいのか悩む。本当に「友達」だというのなら、そういう話は自分の口から報告したいものじゃないだろうか。

 あたしは少し悩んで、誠実を選んだ。

「だから、本人に聞いて。ほら、部長来たからストレッチ始まるよ」

「島﨑のケチー」

「部長に怒鳴られたいなら、どうぞ好きなだけ無駄口叩いて」

 そこまで言うと、ぐぬう、とそいつは引き下がった。何か悪口を言われた気もするが、気にしない。あたしが他人に塩辛いのは今に始まったことじゃない。いい加減慣れてほしい。

 あたしの態度、表情変化から何か察されるのも気持ち悪い。何か適当に理由つけてサボればよかったかな、と思いつつ、アップを始める。

「島﨑、顔色悪いけど、大丈夫か?」

「……あんまり」

「ははっ、正直なやつ。休んでよし」

「ありがとうございます」

 部長直々に休む許可をいただいたので、あたしは帰ることにした。

 なんで女子って生き物は色恋沙汰に目がないんだろうな、と思う。明日、もじもじ女子がどうなるか心配だ。振られたことを一日好き放題ネタにされるのだろうか、と思うと哀れだ。

 とか言いつつ、兄がOKと返事をしなかったことに安堵している自分もいる。人間の感情は複雑怪奇でややこしい。明日、結局名前を覚えられなかったもじもじ女子にどう声をかけてやろうか。それとも声なんてかけない方がいいのだろうか。

 悩みながら、スマホを弄っていると、兄からメッセージが入った。近くのコンビニにいるらしい。返信をして、コンビニへと足を向けた。

 顔色が悪いから、と休まされたが、少しの寄り道くらいは許されるだろう。


「やほやほー、さっきぶり、尚弥ちゃん」

「美青姉!」

 あたしは思わず美青姉に抱きついた。美青姉はびっくりしながらも、「なんだ? 甘えん坊さんだな」とあたしの頭を撫でてくれる。そういうところが好きだ。

 美青姉は美青姉で女子らしいところがあるけれど、付き合いが長いからか、身内感覚になるのだ。依怙贔屓と言われるだろうが、美青姉は依怙贔屓してもいいくらいの存在である。

「部活休むの珍しいねー」

「部長に顔色悪いって言われて、帰ってよしって言われた」

「女子バレー部部長だと……みーたんかな? 結構厳しめの熱血漢だけど。ん? 男じゃないと熱血漢って使わない方良い?」

「漢字の漢で表すおとこは別に性別のことではないからいいと思うけど」

「いや、普通に性別のことだよ」

 駐車場の片隅で待っていた兄がスマホを弄りながら言う。どうやら検索していたらしい。まめな兄だ。

「ただ、最近は痴漢も男性だけがするものではなくなってきているし」

「嘘でしょ!?」

「変態に性別はないからな~」

 間延びした声の美青姉のコメントが刺さる。

 正に多様性というやつだろうか。世間では確かに不審者の中に女性もちらほらと見られるようになった。被害に遭う男の子も今まで言えなかっただけで多いのではないだろうか。

 あたしは多様性という言葉が嫌いだけれど、多様性によってこうして暴かれていく犯罪があるのは良いことなのだろう。胸糞は悪いが。

 最近は変態に性別はないは別な意味でも使われる。変態は同性相手だろうとその変態性を表すことがあるらしい。そういうニュースが、どこかの芸能事務所から出て、世間が震撼しているところだ。

 その方面では、あたしたちは平和な日常を送っていると言えるだろう。学校が近いので電車通学やバス通学がない。高校はどうかわからないけれど。

 あたしは一向にこちらを見ない兄をちら、と見やった。この三人の中で言ったら、一番襲われそうな美人である。睫毛が長いし、髪はよく手入れされていて綺麗だし、目も水晶玉のように透き通っている。制服でよくわからないが、スタイルもすらっとしている。

 脳内で兄のことを褒め、自分の兄のことであるのを改めて認識すると、微妙な気持ちになった。女顔まではいかないけど、女受けする塩顔男子というか、中性的というか。

 声変わりもなだらかなので、声低めの女の子と間違われても何も言えない。

「……おにいのどこがいいんだろうね。同じ女子なのに、女子のこと全然わかんないよ」

 つい、ぽろっと言ってしまう。慌てて兄を見たが、兄は傷ついた様子もなく、本当にね、とあたしに同意した。

「僕のどこがいいのか、僕が聞きたいくらいだよ。振った女の子に聞くのは失礼だと思うから聞かないけど」

 兄はそういう、自虐的な言葉をよく言う。人と目を合わせることができないという自分の欠点をきちんと欠点とわかっている人なのだ。それで、誠実。

 確かに、あたしみたいに性格悪くなくて、優しいところはいいんだろうけどさ。

 自分を見て話してくれない恋人なんて、あり得ないとあたしは思うね。

 なんて、自己完結して、あたしは美青姉が泣きそうだったのを知らなかった。

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