第2話 コイバナなんて美味しいのかよ

 子育ては難しい。けれど子育てが難しいことを育児放棄や虐待の免罪符にするな、と思う。

 あたしの父と母は誰とも目を合わせられなくなった兄を見て、最近、よく謝るようになった。初めての子どもだから、どれくらい言っていいのか、加減がわからなかったの、厳しくしすぎた、と。

 じゃあ、あたしは何?

 加減がわからないのは仕方ないとして、ほぼ同時期にあたしと兄の子育てをしていたはずである。どうしてこんなに差が出るのか。

 どうして、兄にばかり、罵声を浴びせ続けたのか。


 と、こんなことを思ったのは、ませたクラスの女子の会話が耳に入ったからだ。

「えー、それまじ?」

「ひどくない?」

「だよねー。私、女の子なんだからさ、普通もっと優しくするよね」

 断片的な話しか聞いていないから、何がひどいのかはさっぱりだが、あたしは「女の子なんだから、普通はもっと優しくする」の部分に引っかかった。

「なんでお兄ちゃんばっかり責めるの?」

「尚弥は女の子だからね、優しくしないと」

 親にそう答えられたことがあった。

 未だによくわからない。女の子だからって何だ? 女の子だから優しくしなければいけない論理がわからない……というより、男の子には厳しく当たってもいいことにされているのが、喉に支えた魚の小骨みたいにむず痒い。

 女子の会話はたぶん、男子に袖にされた感じなので表現として正しいが、あたしの親の言葉は正しくないような気がする。

 間違っているわけじゃない。正しくないというだけだ。そのことがこんなにも腹の奥でふつふつと煮える。

 あたしは考えすぎだろうか。あたしがおかしいのだろうか。

「その点さあ、島﨑のお兄ちゃんは優しそうでいいよねえ」

 ……女子の会話はどこに飛び火するかわからないとは言うけれど、ピンポイントなところ来るな。話しかけられるのめんどいんだけど。

 と思っていると、女子たちはあたしの方をちらちらと見てくる。その視線がなんか嫌な感じがした。経験則というやつである。

「全然目が合わないけど、話し方が柔らかくてさ~」

「わかるー。声色が優しいんだよね。睡眠導入用の動画とかであの声流れてきたらいい夢見れそう」

「こないだ転んだとき、手貸してもらっちゃった! 立ちんぼで手だけ出すんじゃなくて、ちゃんと屈んで、目線の高さを合わせて大丈夫って言ってくれるんだよ。目合わないけど」

 時折女子はうちの兄を聖人みたいに語る。まあ、人と全然目を合わせられないこと以外は普通にいい人だからな、とあたしは聞き流す。

 問題はこの先だ。

「なんで妹の島﨑はあんな尖ってんだろうね」

「中二かな?」

「いや、小学生のときからずっとつんけんしてるよ」

「例えだし」

「あとはかまちょとか? 年子の下の子が親に構ってもらうために悪いことするっていうのは聞いたことある」

「そうそう、叱ってもらうために気を引くってやつ。従弟がそれひどかったな」

 どいつもこいつも知ったようなことを言ってくれる。あたしは腹が立ってしょうがないが、これくらいのやりとりは日常茶飯事で、いちいち怒っていたらキリがない。

 話も逸れそうだし、いいか、と思いかけたところで、次の言葉が耳に入った。

「あとはブラコンだったりして。お兄ちゃんだけにデレるっていう」

「きもっ」

「ちょっと?」

 耐えきれず介入したあたしの声に女子共はびくっと肩を跳ねさせる。聞き流せばいいのはわかっていたが、さすがに聞き捨てならなかった。

「さっきから人のこと好き勝手言ってくれてるようだけど、そういうのはよそでやって。あたしの視界に一ミリも入らないくらい遠いところで」

 キツい言い方、冷たい声。人を怯えさせるような喋り方しかできないあたしは、会話していた女子だけでなく、教室全体を沈黙させてしまった。

 気まずいとは感じない。あたしは勝手につけられた設定で「キモい」と評されたのだ。これが不愉快でなくて、何が不愉快だというのだろう。

 目付きも悪いのだろうけど、本当、あの温厚な兄の妹だなんて、一番信じられないのはあたし自身だよ。美青姉は力強い目をしてるって言ってくれるけれど、美点は時に欠点になるというわかりやすい例だ。

 あたしは言いたいことを言い終え、席に座り直した。ぎ、ぎ、と椅子が床に擦れる音で気まずい空気を誤魔化してやる。

 窓側の席でよかった。意味もなく外を見ていられる。

 あたしはこの通りの性格なので、人から避けられる。部活は別。スポーツはコミュニケーションが大事だからね。あたしがキツい物言いになるのは、あたしへの悪口になり得る発言をされたときだけ……のはずだ。

 客観的に見た自分、なんて自分にはわからない。自分と主観を切り離すことは無理なんじゃないかとずっと思っているのだが、そんなのただの言い訳だと言われる。

「はーい、おはよう、みんな静かにーって、もう静かだな。どうした?」

 担任が入ってくると、女子たちがくすくす笑い、なんでもないですよー、と返した。こういう適応力はすごいというか、図太いというか。

 ホームルームが始まった。


 担任は小肥りだが溌剌とした男性教師。駄洒落マンという渾名がつくほど駄洒落というか、寒い親父ギャグで授業時間を停止させるのが特技だ。あたしは微妙に名前を忘れている。太宰先生だっけ? たぶん。

 そんな駄洒落マンが面白おかしく話すのを、あたしはぼーっと聞いている。もうすぐ文化祭がどうのとか言っているけれど、興味がなさすぎた。

 あたしはクラスメイトを観察する。特に先ほど兄のことを話していた女子連中。眺めていれば、一人、もじもじとして頬を赤らめているやつがいて、あたしはまたか、とそっと溜め息を吐いた。

 兄は人と目を合わせることが全然できない。が、欠点という欠点はそれくらいなもので、顔が良くて、髪弄りが趣味でお洒落なところは女子の気を引くらしく、ときたま兄に告白しようという輩が現れる。あのもじもじ女子もたぶんそれだ。

 あんなののどこがいいのか、あたしは理解しかねる。みんなスルーするけど、人と目が合わせられないってかなり致命的な欠点じゃなかろうか。

 鐘が鳴り、担任がホームルームを終わらせる。誰だかわからない日直が、起立、礼、というのに従えば、次は授業の準備だ。一時間目は数学。数学教師はいつも来るのが遅いので、生徒たちはのんべんだらりと準備する。

 そんな中、あたしの方にちょこちょこと寄ってくる影があった。さっきのもじもじ女子だ。

「あ、あの、島﨑さん、ちょっとお話、いい?」

「さっさとすれば?」

 兄がモテるという事実を目の前に声を柔らかくすることはあたしにはできなかった。こういうところがブラコンとか言われる原因なんだろうか。あたしはアレがどうしてモテるのか疑問なだけなのだが。

 声をひそめて、もじもじ女子が言う。

「島﨑さんのお兄さんって、今、彼女さんとかいる?」

 とかってなんだ、とかって。

「何、おにいの彼女になりたいの?」

「えっあの、声、大きい」

 あたしはいらいらしていた。先ほどの余波というのもあるが、こう、はっきり一発で片付けない物言いに嫌悪感を抱いているのだ。兄のことが好きなのは正直どうでもいい。あたしのタイプじゃなくても、そいつにとってはタイプなんだろうし。

 だが、それにあたって、あたしにお伺いを立てる文化は一体何なんだ? あたしがブラコンムーブすることでも期待しているのだろうか。あたしのいないところでなら、キモいだの何だのと言われても構わないが。

「あの、その、お兄さんに会わせてもらえないかな?」

「あたしを通さなくても、別に昼休みとかに三年の教室に行けば良くない?」

「そっ、れは、そうなんだけど……放課後に行きたくて。先輩、部活に入っていないから、放課後、すぐ帰っちゃう」

「あーね」

 あたしはスマホを取り出した。兄へのメッセージ送信画面を出す。

「呼び出せばいいの? 校舎裏? 体育館裏?」

「そんな不良みたいな感じじゃなくていいよ」

 校舎裏も体育館裏も告白場所としてはテッパンだと思っていたが、あれは創作の中だけなのだろうか。

 それで、どこがいいのか聞いたところ、昇降口前の桜の木の下だと。ロマンチックでいいですね。

 そういえば、桜の木の下で告白すると成功するとかそんな話があるんだっけ? あれ、桜じゃなくてもよかったっけ。

 とりあえず、兄を指定の場所に呼び出しておいた。既読はつかないが、授業前だから電源を切っているのだろう。

 あたしは改めてもじもじ女子を見る。あたしには手に入れられないみどりの黒髪というやつ。髪の長さはボブカット。顔は悪くないんだろうけど、どうしても地味な感じがする。

 別に兄と付き合う女が地味だろうが派手だろうが知ったことではない。ただ……美青姉と被るなあ、と思う。

 美青姉は茶髪気味だけれど、顔は華がある。幼なじみ贔屓かもしれないけど。あと、もっと堂々としている。けれどパッと見、髪型が同じなので、間違えそうで嫌だな、と思った。

 別に、兄がどんな女と付き合おうが構わないけれど、それで美青姉を蔑ろにするようなことがあったら、あたしは兄を心の底から見損なうと思う。

 それくらい、あたしたち兄妹にとって、美青姉の存在は大きい。

 ただ、兄と美青姉が所謂恋仲になる、という想定をすると、どうしても脳内に疑問符が溢れる。あの二人、友達以上にはなりそうだけど、恋人にはならない気がする。

 やはり、兄も兄で、人と目を合わせられないことは気にしているわけで、恋とかそういうのはそれを克服してから、というのがいつもの断り文句だ。誠実さに溢れているけれど、諦めの悪い女子を増やしているようにしか思えない。

 せいぜい頑張れ、もじもじ女子、とあたしは席に彼女が戻っていくのを見送った。

「あずさ、コクるの? とうとうコクるの?」

「すっごい頑張ったね。島﨑、相変わらず超塩だったじゃん!」

 励ます女子共がもじもじ女子を囲っていた。へえ、もじもじ女子、あずさって名前だったんだ。知らなかった。

 あたしはクラスメイトに興味がなかった。興味を持たないようにしていた。

 地毛が金髪のあたしはどうしたって浮く。そのせいで授業のたびに教師に当てられる率が高い。みんなは羨むけれど、黒髪や茶髪の中に一人だけ金髪っていうのも、そこそこ苦労するのだ。

 だから、黙っていてもネタにされるのに、わざわざ自分からネタにされに行くほど、あたしは目立ちたがりじゃない。いつかみんながあたしを嫌って、あたしに興味なんて持たなくなればいいと思う。

 そんなあたしが変なのか、教室でのひそひそ話ではよくあたしの名が出るようだ。もうどうしたらいいのかわからない。

 あたしに構わないでよ。

 そうして、今日も数学の一発目から教師に当てられるのだった。


 放課後、もじもじ女子に懇願されたので、付き添いで桜の木の下に向かった。律儀に兄は先に来て待っていた。こちらに気づいて、ひらひらと手を振る。目はよそを向いているが。

「あ、美青姉も来たんですね」

「ウンウン。私だって年頃の乙女だもーん。こういうコイバナのネタは欲しいよね!」

 一応奥手そうな女の子の一世一代の大告白の場面なのだから、ネタ扱いはしない方がいいと思うが。

 美青姉があたしを肘で小突いてくる。

「そういうなおちゃんこそ、ついてきてるんじゃない。本当は気になるんでしょう~? お兄ちゃんがどんな子と付き合うか」

「別に、あの子とクラスメイトで、付き添い頼まれただけですよ」

「相変わらずドライだねえ」

 そんな言葉を交わしながら、あたしは美青姉とちょっと距離を置いたところで一世一代の大告白とやらを見守った。

「あの……あのっ! こないだは助けてくれてありがとうございました!」

「あ、うん。怪我したら大変だから、気をつけるんだよ」

 おお、兄め、普段は甲斐性なしにしか見えないのに、ちゃんと助けた女子のことは覚えてやがるのか。こういうところが女子としてはポイント高いのだろうか。あたしと違って、兄は人の顔と名前覚えるの得意だからな。

 案の定、もじもじ女子はぱっと表情を明るくした。その勢いのまま、口にする。

「好きです! 付き合ってください!」

 もじもじ女子が目をぎゅっと瞑って答えを待つ。目を瞑っていれば、その人のことを見ていられるらしい兄は、まじまじとその子のことを見てから、ふっと顔に苦笑いを浮かべる。

「ごめんね」

 柔らかい声音で、そっと拒んだ。

「……っ」

「僕は今のところ、誰とも付き合う気がないんだ。好きって言ってくれるのは嬉しいけど、目と目を合わせることがどうしてもできなくて……この苦手を克服できないと、失礼だと思うから。本当にごめん」

「い、いえ……ありがとうございました!」

 それだけ言うと、もじもじ女子は逃げ去って行った。ちょっと泣いていたと思う。

 そこに美青姉がずいずいと入って行った。

「あーあ、香折ちゃんったらまた女の子泣かして。罪な男だねえ」

 そこそこシリアスな雰囲気の中で思い切り茶化す美青姉。その胆力には目を見張るものがある。……が、これもまた美青姉の気遣いだ。

 こうやってすぐに茶化して気分を逸らしてやらないと、ガラスより繊細であろう兄は女の子を泣かせたことを半年は引きずる。さすが幼なじみ、わかってるなあ、とあたしは感心した。

 兄がいつか、誰かを受け入れて、お付き合いをする、となるのは兄が決めることだから構わない。

 けれど、それまでは、あたしと兄と美青姉の三人でいることを楽しんでいたいとあたしは思う。

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