第46話 天才と林田家

 八月二十九日、日曜日、朝九時、林田家の前にいる。

 僕は今日、林田と夏休みの宿題をやりにきた。今日のお宅訪問に関しては、先日のお詫びどうこうで、呼び出される前に、あくまでこちらからお願いした形である。確かに僕はあの日、血を流すような怪我を頭と手首に負ってしまった。しかし、あれは自分で勝手にやったことだ。完全な僕の不注意である。強いて言えば、あんなところに割れたガラスの破片があったのが悪い。もし、林田のご両親が何か言ってきたら、それを何とか嫌味なく伝えたい。

 僕は自分の左手首の包帯を見つめている。頭の包帯は傷が浅かったのですぐになくても大丈夫になったが、手首の傷はよく動くところについてしまったので、傷が開きやすいというだけのことである。

 

 一応周りの家の表札も確認して、たった一件だけの林田家のインターフォンを押した。

 「橋本くん、いらっしゃい!」

 出てきたのは、メガネをかけたミクだった。僕にはこの明るさが正解かどうかわからない。だから僕は少し明るさを足した、眠たい「おはよう」を返した。

奥には林田が座ったまま、こちらに顔だけを見せて、小さく手を振っている。僕は用意された麦茶と共に奥に通された。

「あれ?お父さんとお母さんは?」

「出かけてもらってるよ」とミクが言った。


まあ、そうなのか。確かに四人で生活をしているとは言われたが、その空間に遊びにきて欲しいと言われたわけではない。「出かけてもらってる」ということは、以前、僕の父さんがしたみたいに、無理に用事を作って家を空けてくれたということだろうか。変な言い方だ。

 

 林田家は外もそうだったが、中も暗い家だ。もちろん外からの光が入って来ていないわけではないし、生活できないことはない。ただ、ずっとここで生活をしていれば慣れる。そういう暗さだ。窓が開け放たれていて、網戸の前で蚊が集まっている。日当たりが良くないから、外ほどの暑さを感じない。扇風機もいらないんだろうか。正直、この家は居心地が悪い。

 林田とミクと僕は丸いちゃぶ台に座っている。大きくも小さくもないが、この部屋には不似合いなぐらいの白っぽい木の色だ。手触りは良いが、表面には少し凸凹を感じる。普段は使わない下敷きを持ってきてよかったと思った。

 こうして正面から二人を比べると本当にそっくりだと改めて思う。髪の長さも大体同じ。服装もTシャツの柄は違うけど、同じ系統のファッションだ。僕が以前遊んでいた二人は、見分けがつきやすい工夫をしていたが、今の二人は似せることに全力を注いでいた名残がある。だから、メガネを外して黙っていられたら、どちらか判別する自信は今の僕にはない。見つめるというほど、そんなに長い時間見ていたわけではないが、これ以上見ていると、何か良くない気がしたので、僕は一応今日の目的を果たそうと思い、準備を始めた。

 今更だけど、一人で来てしまったのはまずかったかもしれないと思う。しかし、健二郎は何やら大変そうだから、仕方がない。


 学校で使っているそのままのカバンから、わくわくワークとそこに挟まっている何枚かのプリントを同時に取り出した。それを見て、林田は数学の教科書とノート代わりに何かのプリントの裏面を取り出した。ミクはプリントの裏面だけだ。僕は「まだわくわくワーク終わってないの?」と言われるのを待っていたのに、二人は何も言ってこない。というより、僕の入室以来、二人は何もしゃべらない。そんなことあるんだろうか。気まずいんだろうか。それとも、勉強というものへの敬意みたいなものなんだろうか。僕は我慢できなくなって、負けを認めて、一番気になっていることを聞いた。

「何やるんだ?」

「もう宿題終わっちゃってて、ミクに勉強教えてるんだ」

「中一の?」

「違うよ。中二の」


 うらやましいことに、林田は宿題が終わっていて、ミクには宿題がないらしい。予想通りではあるが、それはおかしい。これははっきりさせた方がいいと思う。


「ミサでもミクでもいいんだけど、ミクって学校でどういう扱いになってるんだ?」

「うちは、くにおちゃんに休学扱いにしてもらってるよ」

ミクが答えた。

「あれ以来、くにおちゃんには会ったのか?」

「うん、お母さんのお見舞いに来てくれた」

次はミサが答えた。

「その時何か言ってた?」

「パパとママにだけはね。私たちには特に何も」

次もミサが答えた。

「二学期からは?」

「うちは一年生から」

次はミクが答えた。


 二人はこの受け答えが準備されていたかのように、まるで吹き込まれた音声のようにスラスラと答えた。すごく気味が悪かった。


 僕は、頭の中で怒りと、悲しみと、恐怖の感情をぐちゃぐちゃにしながら、問題を解き進めた。それが唯一、正気を保つ方法だった。


 それから夏休みが終わるのは、あっという間だった。

 始業式の日、まだ午前中の放課後、部活の前に僕は職員室に立ち寄ることになる。

 

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