次の部屋にもCの姿は無かった。


 Bと俺が従業員通路に戻り次の部屋に行こうと歩き出したとたん、Bがビクっとして立ち止まり、俺はBにぶつかってしまった。


 俺はBに対して大声を上げそうになったが、一度飲み込んだ後、つとめて声を抑えてBに聞く。


「どうした、B」

「……血だ……あそこの従業員入口のところ……」


 Bの指さすところを、Bの肩越しに目をやる。

 Bのヘッドライトが照らし出しているのは一番奥の従業員入口。

 扉が外された枠の右側、ちょうど人の肩の高さ辺りに、血のついた手で触って擦り付けたような、まだ赤黒い汚れが付いていた。


 俺は「うっ!」っと声を上げそうになったが、我慢する。

 Bが冷静な様子なのに、一人で騒ぐ訳にはいかないという思いが自制させた。

 そして必死で考えを巡らす。


「……Cは額を怪我して出血してたのを右手で抑えてたから、あれはCの手に付いた血なんじゃないか」

 俺がそう言うと、「……Cが走ってきたんだったら、確かに曲がり切れないからあそこに手を付いてもおかしくない。……そう、おかしくなんてない……行こう」

 Bも自分に言い聞かせるようにそう言って、一番奥の従業員入口にゆっくりと歩き出した。


 扉の枠に付いている汚れの前を通る時に汚れに目をやると、確かに血のようだったが既に乾き出しており茶黒くなりつつあった。

 Cの血だろうと思いつつもやはり薄気味悪く、そこは身をよじって避けるように俺もBも通り過ぎる。


「……C……居るのか?」


 Bがそう声をかけて客室の扉をゆっくり開けると、室内からは濃密なカビ臭さに混じり湿った土臭さが、まるで鼻にぶつかってくる感じで流れ出て来た。

 俺とBは思わず鼻を押さえた。

 その濃密な臭いに混じってCのぶつぶつとした声も聞こえてくる。


 「おい、C……っぶっほっ」


 そう呼びかけながらBと俺は部屋に入るが、声を掛けたくても口を開くとカビ臭さ、湿った土臭さでむせてしまう。


 室内に、Cはいた。


 Cは、ベッドルームと浴室の仕切りの壁に描かれた、他のものとは違う妊婦の落書きに壁ドンをするような姿勢でずっとぶつぶつと何かを言っていた。

 Cの着ていたTシャツは塀を乗り越えた時にすり破れボロボロになっており、藪を無理やり進んだことで無数に傷がついたのか、Cの姿はあちこち血が滲んでいた。


「ほのか……ほのかぁ……ほのかが悪かったんだぞぉ……ほのか……ほのかが一緒に居てくれれば、俺はそれでよかったんだぁ……」

 

 他とは違った妊婦の落書き。

 顔の部分を黒く塗りつぶされ、膨らんだ腹に刃物を刺されたように描かれている。

 その妊婦の落書きに向かってずっと呟き続けているC。


 俺は、臭いや落書き、そして友人の一度も見たことのない姿、このシチュエーション全てがおぞましく感じられ、怖気づき、身動きすることができなかった。

 Bも同じなのか全く動きもせず声も発しない。

 俺とBは固まったままCの様子をただ眺めていた。

 

 すると、突然Bのヘッドライトと俺のスマホのライトが全く同時に消えた。


 周囲に光源がない部屋の中は完全な暗闇になり、何も見えない。


 「えっ、嘘だろぉ!」


 Bが悲痛な叫びを上げる。


 「う、うわあぁああっ!」


 俺も、耐えきれなくなって悲鳴を上げた。

 そして逃げようとして完全な暗闇の中を出口らしき方向に向かったところ、壁にぶつかりスマホを落としてしまった。


「……ほのかぁ……こうしていてくれるなら、一緒に居よう……」


 俺が真っ暗闇の中で床に落としたスマホを必死に手探りで探している間も、Cは変わらず独り言を言っている。

 Bは無言でヘッドライトのスイッチをカチカチとやっているようだが、一向にライトが点かないようだ。


 その時、ゴーっというエンジン音と、薄い光が窓から少し差した。

 国道18号線を、長野方面に向かうトラックが近づいてきたようだった。

 トラックのヘッドライトの照り返しが部屋を少し照らし、BとCの影は見える。

 トラックは緩い登り坂をゆっくり進んでいるので、トラックのライトの照り返しはこの忌まわしい部屋を多少長く照らしてくれそうだった。

 床に落としたスマホを探そうと、這いつくばって手で床を撫でまわしていた俺が一瞬顔を上げた時、壁に両手を突いて独り言を言い続けているCの様子に、何か違和感を感じた。


 Cの腕が、手首の辺りまで壁にめり込んでいた。


 「……ほのか……ずーっと一緒だよぉ……」


 Cは独り言を言いながら、壁にめり込む腕に連れて前に行き、黒く塗りつぶされた妊婦の落書きの顔の部分の壁に頭を付けた。

 その頭も壁にめり込んでいく。

 Cの全身が、壁にどんどんと吸い込まれていくようだった。

 

 俺よりもCに近いところに居るBは、トラックのヘッドライトの照り返しを求めて窓の方を向いてヘッドライトを必死にいじっているため、Cの異変には気づいていないようだった。

 

 「B、Cがっ!」


 俺が叫ぶとBはCに目を向けた。

 トラックが「ホテルセリーヌ」の真横に差し掛かり、照り返しが最も明るくなった。

 Bは信じられないといった様子で目を見開き、口を開けて目の前のCを凝視していた。

 

 Bの目の前のCは、全身の殆どが壁にめり込んでいて背中しか残っていない。

 

 Bは俺とは違い勇敢だった。

 CのTシャツをBは後ろから掴んで、引き戻そうと思い切り引っ張った。

 だが、Cが壁にのめり込んでいくのを止めることはできず、元々破れていたCのTシャツはちぎれてしまった。


 そしてCはそのまま、まるで壁の中に落っこちるかのように、ずるりと壁に吸い込まれ姿を消した。


 Bの手元にはCの着ていたTシャツの僅かな布地が残っただけだった。

 Cが消えて再度見えるようになった壁の妊婦の落書きも、何も変わらずそこにある。


 そして、トラックが通り過ぎて、室内はまた真っ暗闇に戻った。



 不意にBのヘッドライトと床に落とした俺のスマホのライトが点いた。

 俺は急いでスマホを拾った。

 時刻は0時48分だった。

 

 Bは、Cが吸い込まれた妊婦の落書きが描かれている壁を恐る恐る触り、その後何度も触って叩き撫でまわした後、壁の後ろの浴室の中も見に行った。


 「……いない……」


 平坦で硬質な声でBはそう言った。

 

 大声や感情を声に出したりすると、お互いにパニックになるのは明らかだったから、落ち着いて行動するためのBの精一杯の配慮だろう。

 そして、この室内に入った時よりは土臭い臭いが無くなった気がしたが、まだカビ臭さはきつく、大声を出した後で息を吸うのをBが嫌がったこともあるだろう。

 俺は、自分が声を出すと冷静さを欠いているのがはっきり表に出てしまうのがわかりきっていた。

 俺がそうなったら、辛うじて保っているBの平静さも吹っ飛んでしまうだろう。


 俺とBは、お互い無言で客室を出た。

 振り返りもしなかった。


 

 Aが残っていた客室の前。

 Bが先に客室に入ろうと扉を開けた。

 

 室内にはAの姿は無かった。

 Bと共に慎重に浴室やトイレも調べたがどこにもAはおらず、ガレージに降りる階段も調べたが姿は無い。

 ガレージの外から入る扉は、やはりカギが掛けられているらしく開かないので外には出ていないようだ。

 となると他の部屋に移ったのかも知れない。


 俺とBは、恐る恐る来た順にまた部屋を確認していった。


 どの部屋にもAはおらず、最後に一番最初に入った客室の扉を開けた。


 開いた扉からは、また濃密なカビ臭さと共に最初来た時には感じなかった強烈な磯の臭いが流れ出て来た。

 俺とBはまた鼻を押さえて客室の中に入ったが、やはりここの客室や浴室の中にもAの姿は見当たらなかった。


 ただ、腐ったベッドマットの妊婦の落書きが描かれている部分の周辺が、人が倒れ込んだかのように僅かに凹んでいた。


 俺とBは無言で顔を見合わせ、どちらからともなく一度車に戻ることにした。

 





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