第5節 最初のヒト

 ジェイとヴォドフライヴィチの距離が近づいた。


 こんなに近くでむきあうのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。井戸の底でヴォドフライヴィチに拳銃で撃たれてから、そんな日はもう二度と訪れないとジェイは思っていた。


 二人は目線を逸らさなかった。油断すると、ここまでかたくなに張り詰めてきた、か細いげんのような緊張が途切れてしまうような気がして、ジェイは恐怖を覚えた。いまさらながら、すべてが夢なのではないかとすら思えた。


 もはや言葉を交わす必要はなかった。ジェイはおもむろにジーンズに右手を突っこみ、その手を右腿のなかへと入れた。水に手を入れるようにスムーズだった。


 はじめて生成した刃物を握りしめ、ジェイはさらにヴォドフライヴィチへと近づいた。


 見慣れたはずのヴォドフライヴィチの顔は、つくりかえられた別物のようだった。その目はもはや、なにも映しだしていないただの穴のようにジェイは感じた。


 距離が近づくほどに、遠く隔たりを感じるのが不思議だった。おかしさがこみあげてきた。おもわずジェイは薄く笑った。ヴォドフライヴィチの表情に、微かな困惑の色が滲んだ。


 次の瞬間だった。なんの前触れもなく、ジェイの身体が溶けだした。柔らかく真っすぐな金髪も、白い肌も、青い瞳も、細く長い指も、衣類に覆われていない部分のすべてが形をかえた。


 そのなめらかで艶やかな、色彩のない鏡面状の曲面は体積を膨張させると、ジェイが身にまとっていた白いカットソーと、ジーンズと、ワークブーツを引き裂いた。


 口を一文字に硬く結び、アイはその様子を眺めた。両手が強く握りしめられていた。ヴォドフライヴィチは、遠くの景色を見るような目つきでそれを眺めた。


 ヒトならざる異形となった個体——数秒前まで、それはジェイであった——は、徐々にヒトのかたちに近づいていった。次第に毛髪が生え、細い腕と、細い脚が生えた——


 ヴォドフライヴィチのダークブラウンの瞳に涙が溜まり、こぼれ落ちた。涙がとめどなく頬を伝い、床を濡らした。


 一人の女があらわれた。緑色の瞳、高い鼻、小さな口――女とヴォドフライヴィチは数秒だけ見つめ合った。出し抜けに、腰までかかる女の豊かな長い金髪が、強風にあおられた稲穂のように激しく動いた。


 女が握る刃物がヴォドフライヴィチの左胸を貫いた。ヴォドフライヴィチは背骨の芯を抜かれたように、女に身を委ねた。


 ヴォドフライヴィチは湿った声を漏らした。「ヴェー——」


 女はヴォドフライヴィチの胸元から刃物を引き抜いた。赤い血が滝のようにこぼれ落ちる。熊のようにおおきな身体が傾き、その場に崩れ落ちた。


 残されたわずかな力を振り絞り、ヴォドフライヴィチは床の上で身をよじる。すがるように、目の前に立つ綺麗な金髪の女を見上げた。震える手をなにもない空間に伸ばして、ゆっくりと口を開いた。


「生まれてはじめて……人間というものを感じたんだ……きみと出会ったときに——私にとって、きみは最初で最後のヒト……ああ……もう一度、きみと会えるなんて——こんなにも遠くで——」


 ヴォドフライヴィチはすぐに動かなくなった。それを見届けてから、女はジェイの姿を取り戻した。身に着けている衣類からなにからなにまで、ヴォドフライヴィチを殺める前のジェイと、なんら変わりはなかった。


 ジェイはヴォドフライヴィチを見下ろした。たくましい巨体、縮れた髪の毛、伸びた眉毛、豊かな口髭、毛むくじゃらの両手、そして開かれたままの両目——


「これで擬態能力は問題なく使えることがわかった」渇いた声でジェイは言った。「もっとも解像度が高い記憶データだった」


 アイの頬を涙が伝った。


「どうしてあいつは、一番最初に目にした男——自分をつくった人間の一人の姿かたちを、人生最期の擬態対象に選んだんだろうな」ジェイは話を逸らすように言った。「記憶データから削除されないように、ながいことプロテクトをかけ続けて」


 そのときだった。天井から一筋の光線が降り注いだ。


 その青白く冷ややかな光は、分厚い金属製の天井の一部を、ちいさな正方形に切り抜いた。天井が抜けて落ちてくると、床が揺れるほどの衝撃がはしった。ほとんど同時に、戦闘服に身を包んだ部隊がその穴から降下してきて、ジェイとアイを素早く取り囲んだ。


 戦闘部隊に機関銃をむけられたジェイとアイは、中央でおたがいに硬く身を寄せあった。先ほどの光景がプレイバックされたように、軍隊の人垣が割れ、軍服に身を包んだ男——ヴォドフライヴィチに指令と呼ばれた男が、ジェイとアイに近づいてきた。床を打ち鳴らす、革靴の高い音が響いた。


 事切れたヴォドフライヴィチに一瞥をくれてから、指令はジェイとアイを交互に見た。


「光線兵器まで持ってこさせて、突撃が間に合わなかったとはお笑い種だな」指令は歩みを止め、眼鏡のブリッジを指で押し上げて言った。「やってくれたな」


「残念だったな」ジェイは無感動に言った。「もっとも、あいつは宇宙にのぼる気なんて、さらさらないようだったが」


「その気にさせる方法がないとでも思っているのか?」指令は冷徹に言った。


 ジェイは思考を巡らせる。擬態能力で虚をつけば、指令を殺せるかもしれない。擬態能力が解放されていることがわかれば、戦闘部隊がためらいなく自分たちを射殺する可能性は低いだろう。分が悪い賭けではあるが——


 記憶データが格納されているディレクトリに、ジェイはアクセスした。しかし、指令の記憶データはそこに見当たらなかった。


「無駄だ」指令はいかにもつまらなそうに言った。「ミミクリーの力は我々に対して無効化してある。なんの対策もしていないとでも、思っていたのか?」


 突きつけられた銃口が冷たかった。

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