第4節 フラクタル
「だめよ」アイはゆっくりと首を横に振った。「永遠に歳をとれないなんて、そんなこと——」
「擬態能力と、生存維持システムはそれぞれ独立した機能だ。擬態能力を解放したからといって、死ねなくなるわけではない」
「ほかに考えられる影響はないのか?」ジェイは訊いた。
「原理的にはとくにないはずだ。もっとも、後天的に擬態能力を解放した事例がないから、たしかなことは言えないが」
ジェイは腕を組み、俯いて考えた。ひとしきり沈黙が続いた。
「擬態能力を解放したところで、きみにできることは、それほどおおくはないだろう」ヴォドフライヴィチは静かに言った。「エーの政府だけならいざ知らず、宇宙軍まで動き始めているからな。彼らのテクノロジーは、おそらくエーのそれとは比べものにならないだろう」
「賭けになんてならないじゃない」アイが言った。
「それはジェイ君次第だ。分が悪い賭けには違いないし、ミミクリーの力なんて、ろくでもないものだ。心底そう思う。しかし、このままいったとて、エフの未来はぞっとしないものになるだろう」
「僕の擬態能力を解放させて、それでおまえはいったいなにを望むんだ?」
「なにもない。私は私のおわりを望むだけだ」ヴォドフライヴィチは平板な声で言った。「だが、あえて言うならば、世界に一石を投じてから去るのも悪くない。いまさらその結果を見届ける気にはならないが」
※ ※ ※
ヘッドレストがついたデスクチェアに深く座ると、ジェイはアイマスクを身に着けた。その上からヘルメット状のヘッドギアを被った。ヘッドギアから太く黒いケーブルが伸びていて、その先端は床に繋がっていた。
「政府から学んだ知識と技術の枠の外で、唯一、私が開発できたものだ。既存の技術の
「この装置をなにかに使おうとしてたのか?」ジェイは目を細めて訊いた。
「使うつもりはなかった。使うにしても、まさかこんなふうに使うとは、思いもしなんだ」ヴォドフライヴィチはホログラムの位置を調整しながら言った。「ほんとうは、なおしたかったんだがな。ヴェーを」
見慣れない装置を頭に取りつけられ、椅子に座るジェイをアイは不安げな表情で見つめた。胸の前で両手が硬く組まれていた。大聖堂で妹の死に祈りをささげたときのように。
「さあ、はじめてもいいか?」ヴォドフライヴィチは訊いた。
「ああ、やってくれ」
「一度解放した擬態機能は不可逆だ。一生その力と折り合いをつけていくことになるが——」
「早くしろ」
ヴォドフライヴィチは脳波とリンクした理論キーボードで、ミミクリーの擬態能力を解放するコマンドプロンプトを入力した。
ジェイの頭部に繋がれたヘッドギアを通じて、ストレージ深層の隠しディレクトリで眠っていた擬態機能が、ルードディレクトリに移される——薄れゆくジェイの意識を、散文のような情景が一瞬だけ駆け抜けた。
——存在の階層をくだる
※ ※ ※
母と最後に交わした言葉——もはやそれが事実かは定かではない——の、そっけなさ、父親——ディー——と最後に食べた、素朴なスープの温かさ、ケーと過ごした貧しい日々、自動車整備工場の青年が、ギャングのジーが、マフィアのドンが、保険外交員が、情報屋のエイチが、ティーが、エルが、クレメンザが——
「気分はどうだ?」ヴォドフライヴィチが尋ねた。
ジェイはデスクチェアの背もたれから、ゆっくりと身体を起こした。ヘッドギアはすでに取り外されていた。
「悪くないな」頭を軽く振ってジェイは言った。「良くもないが。どれくらい眠っていた?」
「三分くらいだ」ヴォドフライヴィチは中空に浮かぶホログラムを確認して言った。
「ずいぶんと長いこと眠っていた感覚がある」
それだけではなく、たしかにこれまでとは異なるものに自分はなったのだという、そんな確信がジェイの身体に満ちていた。
「だいじょうぶ?」アイはジェイの手を握った。
「ああ」ジェイは頷いてから、ヴォドフライヴィチを見た。「擬態能力はどうやって使用する?」
「
ジェイは記憶データが眠るディレクトリにアクセスした。そこには、アイとヴォドフライヴィチの記憶データがすでに格納されていた。
ジェイは頷いた。「刃物はどうやって生成するんだ?」
「理論キーボードを入力する要領で、刃物を生成するコマンドを入力するんだ」
そう言いおえると、ヴォドフライヴィチは、息絶えた骨にむかって歩き始めた。ジェイはデスクチェアから立ちあがり、アイと一緒にそれを眺めた。
「さあ、そろそろ私を殺してくれ。もうさほど時間は残されていないだろう」ヴォドフライヴィチは天井を指差しながら言った。「劣化しているとはいえ、生存維持システムがまだ作動している。こればかりは手を借りる必要があるのだ」
ジェイはヴォドフライヴィチと、事切れた骨にむかって歩いた。その奥で横たわり、動かなくなったエルとクレメンザをぼんやりと眺めながら。
くたびれたワークブーツが鳴らす、やわらかな足音だけが響いた。
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