第6節 エル

 巨大な水槽の中で眠るティーは、健康的な褐色の肌をしていて、どこまでも透明な水に豊かな黒髪を揺らめかせている。見慣れたティーの姿、そのものだった。しかし、天井から伸びるコード――呼吸器を口元に装着しているという点だけが、異なっていた。


「どういうことだ、これは」裏返りそうな声でエルは言った。


「直接訊いてみるかい?」老人はそう言うと、返事も待たずに水槽の前に設置された端末に歩いた。「対話をしてみるといい。人間らしく」


 老人が端末のタッチパネルを操作すると、音をたてて水槽から水がはけていった。ジェイ、アイ、エル、クレメンザの四人は、その様子を遠巻きに見つめた。さほど時間がかからずにすべての水がなくなり、濡れそぼった身体をしたティーが、空になった水槽に残された。


 水槽の全面が縦に割れて左右に開かれると、ティーの口元に装着された呼吸器と、身体を支えていたコードが天井に昇っていった。目を閉じたまま、ティーは一人で地面に立った。


「ティー……ほんとうに、おまえなのか?」迷子の子どものようにエルは言った。


「よせ」ジェイは平板に言った。「不用意に近づくな」


 制止しようとしたジェイの手を振り切り、エルはティーにむかって駆けだした。二人の距離が縮まり、エルの手がティーの身体に触れようとしたそのとき――エルの胸を刃物が貫いた。


 ときが止まったようだった。そこにはどんな音もなかった。見慣れない巨大な水槽が置かれた研究室に、限りなく完全な沈黙が降りた。


 一瞬の静止を経て、我を取り戻したジェイが地面を蹴って駆け出した。アイとクレメンザは拳銃をティーにむけた。その気配を感じ取ったエルは、右手をかざしてみなの動きを制した。


 ほとんど抱き合うような恰好のティーとエルから、少し距離をとってジェイは立ち止まった。中空に浮かんだエルの右手が行き場をなくしたように彷徨ってから、ゆっくりと下ろされた。空気が抜けた風船のようだった。


「かまいたちだろ?」エルはぎこちない笑みを浮かべ、弱々しい声でティーに言った。「俺だってわかっているさ、おまえは死んだんだ。でも、どうしても、おまえと、もう一度だけ話がしたかったんだ」


 エルの口から鮮血が漏れ出た。刃物は左胸に深く突き立てられている。ティーの姿をした、かまいたちの両目は開かれていて、うつむき、地面を眺めているようだった。あるいは、なにも見ていないのだろうか? これまでに見たことだって、なにひとつ覚えていないのかもしれない。ジェイはそう思った。


「なあ、おまえが、かまいたちだって、疑って悪かったな。むりやり拉致って、お仕置き部屋に連れこんで、拷問のようなことをしちまってよ……。許してくれとは言わねえよ。ただ、謝りたかったんだ。でも、おまえはそんなことよりも、『気安く、おまえ呼ばわりするな』って怒るんだろうな」エルはそこまで言うと、頭を深く下げて、体重のほとんどすべてをティーの姿をした、かまいたちにあずけた。「ジェイ。いるか?」


「ああ」


「なあ、ジーの兄貴と俺の顔って、似てないか?」吐息が混ざった声でエルは言った。


「ぜんぜん似てないね」


 エルは薄く笑う。「相変わらずだな、おまえは。最期までよ」


「なにを言ったらいいか、わからないんだ」


「後悔なんてしてねえぜ」エルは首を横に振った。「ジーの兄貴の仇を討つために、俺は自らおまえに協力することにしたんだ。でも、やっぱりわからねえんだ。結局、この気持ちはどこにぶつけたらいいんだ? なんかわかっちまったんだよ。こいつと相対して、なんとなく……」


 ジェイは唇を噛み、かまいたちに寄りかかるエルを見つめた。


「ひとつだけ、はっきりしていることがあるぜ。おまえらといた時間は、悪くなかったぜ。ジーの兄貴たちと過ごした時間と、おなじくらい」エルは深く息を吸いこみ、それから、ゆっくりと吐き出した。「そういや、ジーの兄貴は、大昔の人間は、死後の世界を信じていたって、言っていたな……。おまえは死後の世界を信じられるか? ジェイ」


「ああ、信じるよ」


「なんだよ、おまえらしくもねえ……」


 エルの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。同時に胸から刃物が引き抜かれ、床に放射状の真っ赤な溜まりができあがった。まるで真紅の花弁のようだった。その中心には、事切れ、洞穴のように薄暗い目をしたエルの亡骸が横たわった。なにかしらの崇拝の対象とされる、偶像のように。


 エルの亡骸に一瞥もくれずに、ティーの姿をした、かまいたちはゆっくりと歩き出した。その歩みの先はジェイなのか、それともその奥で身構えているアイなのか、クレメンザなのか、はたまた老人にむかっているのか、ひどく不確かで不明瞭な足取りだった。


 わずか数歩だけ足を交互に繰り出すと、かまいたちはおもむろに立ち止まった。表情のない能面のような顔で、唇を少しだけ開き、懸命に呼吸をしているように、ジェイには見えた。次第に肩が上下に震え始めたかと思うと、血が滴る刃物が右の手のひらからするりと抜け落ち、頭を両手で覆い、その場にうずくまった。刃物と床が衝突した鋭い音が、その場に反響した。


「見るんだ」老人は静かに言った「これが、かまいたちだ」


 かまいたちは頭を押さえて、怯えたように地面に這いつくばり、何度か大きく震えてから、そのすべてを脱ぎ捨てた。頭頂からつま先まで、髪の毛、頭皮、皮膚、爪、歯。ターコイズブルーのドレスが、血と肉でまだらに染まった。


 その場に残されたのは、わずかな臓器と筋肉をかろうじて身にまとった、赤黒く濡れそぼった骨だった。

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