第5節 戦略研究所②
ジェイはコンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスで、突如視界に現れた小柄な老人をスキャンした。老人は身体と同期されたウェアラブルデバイスを、なにひとつ身に着けていないようだった。
老人はパイプ椅子に座って、正面の一点を見つめていた。そこに置かれて長い時間が経過した、銅像のように。
ジェイは老人を遠くから――ウェアラブルデバイスで拡大して、眺めた。短く刈り込んだ白髪、人工的な緑色が鮮やかな医療用の作業服――スクラブスーツ、清潔な白いソックスが映える、黒いサンダル。顔の端々や首、肘には、これまで老人が生きてきた時間が刻印のように、皺として刻みこまれている。
四人は顔を見合わせて、曲がった角を無言で引き返した。戦略研究所はなにもない場所に忽然と建っていて、周囲に遮蔽物はなかった。建物を覆う灰色の塀の高さは高く、唯一の入口の前に陣取る老人に気づかれることなく、その中に侵入することは不可能だった。
二手にわかれて、二方向から同時に接近して老人を取り押さえることにした。エルとクレメンザはいま立っている地点から、ジェイとアイは反対側にぐるりと回りこんで突撃することにした。
ジェイは反対側の角に着くと、ウェアラブルデバイスを介して、エルとクレメンザに合図を発信した。二人がそれを受信したのを確認してから拳銃を握りしめた。両地点の視覚情報を四人で共有しあいながら、タイミングをそろえて歩き出した。
両端から老人が座っている門までは、おおよそ百メートルの距離があった。四人はできるだけ気配を消して、静かに前進した。老人との距離が七十メートルになり、五十メートルになり、三十メートルになった。老人は微動だにせずに、ただ正面を見据えている。その距離がとうとう十メートルまで接近したときだった。
「遅かったじゃないか」水のように淀みない声で、老人は言った。「待っていたよ」
その声を合図に、アイとクレメンザはその場で拳銃を構えて立ち止まり、ジェイとエルは老人にむかって駆けだした。
「怯える必要はない」老人はそう言い、両手を頭の後ろに回して降伏を示した。「中を案内するよ」
老人を組み伏せようとしたジェイとエルはその動きを止め、拳銃を突きつけた。
「私がだれだかわからないのかい?」老人はだれにともなく尋ねた。
「戦略研究所の人間か?」老人のこめかみに拳銃を押し当ててジェイは言った。
「そのとおり」
「目的はなんだ?」
「幕を下ろしにきたんだよ」老人は穏やかな笑みを浮かべて言った。「おわりのときが近い」
老人は立ち上がり、そそくさとパイプ椅子を畳んで掴むと、くるりと振り返り、門の操作盤に
軋んだ鈍い音をたてて門が開かれた。老人の動きに意識を集中させながら、ジェイの脳裏にエフの工場の門が浮かんだ。怠惰を全身で表したような小太りの門衛、地鳴りのような音を鳴らしてゆっくりと動く、錆びた巨大な門――ようやくだ。ジェイはそう思った。ようやく、ケーの命を奪った、かまいたちの謎が明らかになる。予感を超えた確信が背骨を走った。
「ついておいで」老人は手招きをして言った。
ジェイとエルは老人の両脇を挟むようにならび、アイとクレメンザは少し後ろを歩いた。老人はパイプ椅子を抱えたまま、たしかな足取りで建物の入口にむかって歩いた。
「いま何歳?」小柄な老人は突然エルをむき、小首を傾げるように尋ねた。
「二十五だ」
「いいね、まだ人生が長くて」
老人が抱えるパイプ椅子をジェイはじっと見た。それに気がついた老人はジェイをむいた。
「このパイプ椅子は、診療所のものだよ」老人はそっけなく言った。
ジェイは立ち止まった。呼応するように老人も動きを止め、エルも、アイも、クレメンザも動きを静止させた。
「エフの診療所のことを言っているのか?」
「もちろん」いかにも感慨深そうに老人は頷いた。
「あんた、何者だ?」
「すぐにわかるさ」
老人は再び歩き出し、四人もそれに続いた。入り口の操作盤に老人が虹彩をかざすと、分厚い金属製の扉が開かれた。
四人は老人の後に続いて中に入った。建物の中に入ると同時に照明がついた。老人は明るさに目が慣れていないのか、目を細めていた。
ジェイは建物の中を見渡した。灰色の壁はつるりとしていて継ぎ目が見当たらず、床も同様の素材に見えた。天井が高く、やけに白い照明が眩しかった。直線的な長い廊下が続き、その両脇にはいくつかの扉がならぶ。そのどれもに操作盤が取りつけられていて、ロックがかかっているようだった。
廊下の一番奥に位置する扉までたどり着くと、老人は操作盤に虹彩をかざした。扉のロックが解除され、老人は扉を開いた。
扉のむこうの光景に、ジェイ、アイ、エルの三人は、息を呑んだ。その部屋には水で満たされた巨大な水槽が置かれていた。その中で、瞳を閉じた、ティーが浮かんでいる。刺すように白い照明と透き通る水が、あでやかなターコイズブルーの揺らめくドレスを、煌めかせていた。
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