第4節 戦略研究所①

 頭上のはるか彼方――五〇〇〇メートルの距離を隔てて、この地点には、もみの木の森が広がり、井戸がある。そう思うと、ジェイは名状しがたい不思議な気分になった。


 コンベンション・センターの正面を覆う硝子がらすは、高く昇った疑似的な太陽の光を受けて、染み一つない清潔なシーツのように輝いていた。何人かの人が吸い込まれるようにして、入口へとむかって歩く。ジェイたち四人は人の波に乗るようにして進んだ。


 入口の巨大なガラス扉は開け放たれていた。建物の中に入ってすぐのところに、ホログラムが中空に浮かんでいて、その日に予定されているプログラムが表示されていた。企業の研修、採用試験、なにかしらの地域団体の行事ごとで予定は埋め尽くされていた。政府関係の予定は見当たらなかった。


 マップ情報をコンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスで確認しながら、ジェイは建物を進んだ。四人はそれぞれ距離をとり、偶然に居合わせた風を装って歩いた。


 天井が高い通路を真っすぐに進み、灰色の階段を上り、大理石の廊下の角を曲がってしばらく歩くと、壁一面にカメムシ色のタイルが敷き詰められた、見覚えのあるエレベーターホールにたどり着いた。周囲に人影はなかった。


 クレメンザは一人、エレベーターに近づくと、操作盤を覗きこむようにして虹彩こうさいデータ――政府の内部システムから持ち出した、ヴォドフライヴィチのもの――を読みこませた。音もなくエレベーターが動き出した気配が伝わった。


 ほどなくしてエレベーターがやってきた。四人は滑りこむように素早く、それに乗りこんだ。扉は音もなく閉まった。


 ジェイは無意識に足元を見つめ、履き古したワークブーツで床を踏み鳴らした。床を覆カーペットはざらざらと埃っぽく、赤黒い染みが付着していた。エレベーターの中には階数表示も、ボタンやスイッチの類も一切見当たらず、どこか不完全な印象を受けた。まだつくりかけのエレベーターのように。


 四人は長い沈黙に沈んだ。長いだけでなく張り詰めていて、それでいて重油のように黒く重たかった。ジェイは所在しょざいなげに、あえて焦点をぼかした目で正面の扉を眺めたり、足元の染みの数を数えたりしてやり過ごした。ほかの三人も同じようにして、幾年月も野ざらしにされた記念碑のようにじっとしていた。


 突然、扉が開いた。四人は身構えたが、人気ひとけはなかった。扉のむこうは薄暗かった。


 四人は慎重にエレベーターを降りた。ほとんど同時に、やはり音もなく扉が閉まった。クレメンザが入手したマップ情報――実質的にエーの三層にあたる――を確認しながら、四人はビルディングの出口を目指した。


 降り立った建物の中は、どこまで進んでも薄暗く、その通路は細かった。点々と微かに照らす、誘導灯だけが頼りだった。マップ情報に従って歩くと、すぐに建物の外に突きあたった。建物の外も薄暗く、静まり返っていた。


「エーの三層は現在、使用されていません」クレメンザは言った。「大戦中の古い施設がいくつか残っているだけで、あとは有事に備えてつくられた、巨大な核シェルターがあるだけです」


「戦略研究所ってのは、大戦のころからあるってわけか?」エルは眉間に皺を寄せて訊いた。


 クレメンザは頷く。「もちろんです。大戦の最中さなかに戦略兵器――ミミクリーを生み出したのですから」


 建物の外には一面、コンクリート造の駐車場が広がっていた。その中にぽつねんと、一台のホバーカーが停められていた。他に停まっているホバーカーも、人の姿も見当たらなかった。人々がここを行き交うことはほとんどないようで、足元は埃っぽく、どことなく湿っぽい、しけた空気があたりに満ちていた。


「このホバーカーに乗っていくことはできません」クレメンザはきっぱりと言った。「というよりも、三層の乗り物を使うことはできません。リスクが高すぎるので」


「ここから戦略研究所まではそれなりに距離があるんでしょ?」アイは不安げに首を傾げた。


「はい、おおよそ二十キロメートルです」クレメンザは表情一つ変えずに言った。「歩きましょう」


    ※  ※  ※


 四人は駐車場を横切り、道路に出て、マップが指し示す戦略研究所の方角を目指して歩いた。エーの三層はその薄暗さによって、どれくらい天井が高いのか、はかり知ることができなかった。不衛生な――常時、ねずみが視界の端を行き来するエーの一層よりもはるかに、孤独に満ちた暗闇がどこまでも広がっていて、人は一人もいなかった。


 道は長いこと手入れがされていないようで、ところどころひび割れていた。かつては道路の両脇を覆うように、植栽が彩り豊かに繁茂していたのだろうが、今では樹木も、土も姿を消していた。歩道の側溝には濃く、どろりとした緑色のヘドロがところどころ堆積していた。えたような匂いがした。


「ひどいもんだな」ジェイは顔をしかめて言った。「しかし、そう遠くない未来にエフもこうなるんだろうな」


「こんなに荒れ果てるかしら?」アイは首を捻る。


「どんどん人口も減っているし、テクノロジーも衰退していっている。あげく、いつだって厚い雲に覆われていて、ほとんど雪に閉ざされている」遭難者の名前を読み上げるように、ジェイは言った。「エフが滅びるのは、火を見るよりも明らかだ。むしろ、滅んでから長い時間が経過しているとも言える」


 時折休憩をとりながら、四人はたしかな足取りで歩き続けた。ぽつりぽつりと、巨大な建物が何棟か目についた。五時間ほど歩くと、ようやく戦略研究所が見えてきた。


 その建物は灰色の塀に囲まれていた。これまでに通り過ぎた巨大な建物と比較して、こぢんまりとした建物だった。しかし、いかにも堅牢そうだった。


 四人は門にむかって角を曲がった。門を視界にとらえたとき、その入り口に小柄な老人が一人、パイプ椅子に腰をかけているのが見えた。

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