第2節 エー

「ざまあない」指令はメタルフレームの眼鏡を指で押し上げて言った。「我々のホームだったからよかったものの、敵地だったら任務失敗だ」


 ジェイと指令は、閉ざされた会議室でむきあった。照明の白さがナイフのように鋭かった。空中にいくつものホログラムが浮かび、指令はそれらが表示する無数の情報から一切目を離さなかった。


 ジェイは押し黙った。苔むした巨大な岩石のように。感情がうかがえない表情で、遠くの森を眺めるように静かな目をしている。


「念のため、いったんシーを離脱しろ」


 ジェイは頷く。


「きみが任務に失敗するということは、エフの運命が変わることを意味する」指令はジェイの背中にゴミを投げつけるように言った。「地球に降りるのはずいぶんと久しぶりだろう? その重みを再確認してくるといい」


    ※  ※  ※


 コロニー——シーのスペースポートは、多くの人であふれていた。小型の宇宙船が行き交い、コロニー間の移動が活発に行われていた。惑星を行き来する宇宙船も何隻かあったが、地球にむかう宇宙船はごくわずかだった。地球におりられる者は、ごく一部の権限を有する者に限られていた。


 壁面を縦横無尽に走る、移動用のベルトラインに手をそえ、ジェイはターミナルを進んだ。遠心力により重力を得る、コロニーの先端に設置されたスペースポートは無回転だった。無重力状態であることによって、最小限の推力でスムーズな離着陸を可能にした。


 ターミナル手前に位置する、宇宙連邦関係者のゲートをジェイはくぐった。あたりに人の気配はなく、すべてがAIで制御され、なにもかもが整然としていた。高い天井の上から下まで一分の隙もなく、壁一面を埋め尽くす窓硝子まどがらすをジェイは眺めた。


 深淵まで沈みこんだように暗く、どこまでも広がる宇宙。点々と輝く天体。ときおりスペースポートに近づき、あるいは離れていく宇宙船が放つまばゆい光。ジェイはすこし気が遠くなるのを感じた。


 ほどなくして、ジェイが待つ宇宙船の到着を知らせるアナウンスが響いた。身体の上下をぐるりと反転させ、宇宙服のバックパックに取りつけられたスラスターからわずかに推進剤を噴出させ、ゲートにむかった。


 ジェイが近づくと無人のゲートは開かれた。そのまま小さな宇宙船に乗りこみ、シートに身体をベルトで固定した。船内は完全に無人で、AIのアナウンス以外はほとんどまったくの無音だった。ジェイはゆっくりと瞳を閉じた。


    ※  ※  ※


 ジェイが乗った宇宙船は、エフの中心地から南東におおよそ四〇〇〇キロメートル離れた辺境——エフの人々が立ち入ることはできない——に位置する、地球最深の湖の上に浮かぶ軍事施設に着陸した。


 宇宙船に乗りこんだときと同様に、ジェイが無人のゲートに近づくとそのバーは開かれた。


 宇宙服を脱ぎ捨てたジェイは、着古した黒いスウェットシャツを被り、色あせたファティーグパンツを穿き、あたらしいワークブーツの紐を縛り上げた。それから分厚いメルトンのダッフルコート——かまいたちに刺されたケーの身体から、漏れ出た鮮血をおおいに吸いこんでいる——を脇に抱えて歩き出した。


 ひさしぶりに服を身にまとうと——普段は擬態能力の応用で衣類を構成している——ずいぶんと遠くにきてしまったことを実感した。


 水中トンネルを走るリニアモーターカーに乗りこみ、ジェイは少し眠った。目が覚めるとエーの三層の淵——かつてジェイたちが降りた地点から二〇〇〇キロメートルほど南東に位置する——に到着していた。


 ジェイはエーの一層まであがり、ホバーカーに乗りこんで再び目を閉じた。


    ※  ※  ※


 それから数日は平穏に過ぎた。エーに初めて降りた地点——おおきなねずみ闊歩かっぽする街——にジェイは宿をとり、ゆっくりと過ごした。


 朝、目が覚めて熱いコーヒーを飲んで一息入れてから、大量に買いこんだウイスキー、ウォッカ、ワインを節操なく、だらだらと飲んだ。食事はルームサービスをとったが、もっぱらミックスナッツや、ビーフジャーキーですませることもおおかった。どれだけ酒を飲んでも酔いがまわることはなかった。


 ある夜にジェイは動いた。うらびれたホテルを出ると、裏路地を歩いた。しばらくすると歩みを止め、壁にもたれてそのときをじっと待った。


 おもむろにジェイは擬態能力を発動させた。鏡面上の異形となり、徐々にヒト型に近づいていく。収斂しゅうれんした姿は、黒々とした癖毛に、不精髭を生やし、くたびれた背広姿で——


 男が一人、角を曲がって裏路地に入ってきた。癖のある金髪の男——ケミドフだった。


 ケミドフは壁にもたれる背広姿の男を視界に入れると、驚愕の表情でその場に固まった。


「クレメンザ……」ケミドフは絞り出すように言った。「どうして……」


「ずいぶんとひどい目にあいましたよ」クレメンザ——の姿をしたジェイは抑揚に欠ける声で言った。


 なにかを言おうとしたケミドフにクレメンザはゆっくりと近づき、無言で右目にタクティカル・ペン——さかり場でティーからジェイが譲り受けた、あのタクティカル・ペンを突き立てた。 


 鋭い悲鳴が響き渡った。クレメンザはタクティカル・ペンを引き抜くと、さらに左目に突き刺した。今度は低く鈍い悲鳴が鳴った。


「いろんな人が死んでしまった」クレメンザ——ジェイは平板に言った。「ティー、エル、クレメンザ。みんな殺された。おまえがエーの政府に情報を流していたおかげでな」


「おまえはいったい……」視力を奪われたケミドフは彷徨うように言った。「すぐに人がやってくるぞ」


「あいにく、このあたりの監視カメラはジャックしている」クレメンザはあざけるように言った。「消え失せろ」


 クレメンザは左目からタクティカル・ペンを引き抜くと、ケミドフの首元に突き刺した。何度も繰り返し、力任せにタクティカル・ペンを突き立てた。次第に悲鳴もあがらなくなり、ケミドフの首に無数の暗い穴ができあがった。


 擬態能力を解除したジェイは、動かなくなったケミドフの首に刺さったままのタクティカル・ペンを見つめた。薄暗い街灯に照らされて、タクティカル・ペンは鈍く光っていた。血の溜まりは濃く、暗かった。


 ジェイは踵を返し、歩いてホテルにもどった。

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