第3節 エフ

 それは突然のことだった。


 エーからエフにあがったジェイは冷たい家にたどり着き、ずいぶんとひさしぶりに骨董品のようなガソリン車に乗りこんだ。最後にこの車を運転したのはいつのことだったか、思い出すことができなかった。


 イグニッションキーを回すと、くたびれたガソリン車は悲鳴のような音を響かせて、そのエンジンを始動させた。ジェイはステアリングを切り、ゆっくりと通りに出て、アイの家にむかった。


 荒れ果てた道路をしばらく真っすぐに走ると、おもむろに車の速力が低下しはじめた。厚く重たい油膜に包まれたみたいだった。みるみるスピードを落とした車は、どれだけアクセルを踏みこんでも、一切動かなくなった。


 ジェイは何度かエンジンの再始動を繰り返した。車はそのたびに、首を絞められた女の叫び声のような音を鳴らした。何度エンジンをかけなおしても、車が再び動き出すことはなかった。


 ジェイは自動車整備工場の快活な青年に電話をかけた。


「おそらく、トランスミッションの故障でしょう」工場の青年は言った。


「なおせるか?」


「パーツを取り寄せられるかあたってみますが、難しいと思います」工場の青年は、ばつが悪そうに言った。「前回修理できたのも、ほとんど奇跡のようなものだったんです。ジェイさんがその自動車を大切にしているのは、よくわかりますが」


「そうか」ジェイは気のない声で言った。


「いずれにしても、一度工場に運びましょう。いまからレッカー車をまわしますよ」


    ※  ※  ※


 ものの十五分でやってきた青年は、動かなくなった車を手際よくレッカー車に吊り上げて、自動車修理工場に運んだ。


 工場に着いた青年は、トランスミッションを修理するためのパーツを取り寄せられるか、めぼしい業者に連絡をいれた。だが、さほど時間がかからずに、それは叶わぬ願いだということがわかった。


「もういいんだ」ジェイは肩を落とす青年に言った。「おわったことなんだ」


 最後にジェイは運転席に乗りこみ、シフトノブに手をそえ、ステアリングを握った。定められた儀式のように。


 助手席に目をやった。助手席のシートに染みこんだケーの血痕が、心なしか薄くなっているような気がした。なにもかもがおわったのだという実感が、胸にこみあげた。


 ジェイは青年に廃車の手続きを頼み、自動車修理工場であまっていた、電気自動車を一台買いあげた。青年は業務の範囲を超えて、良心的な値段でそれをジェイに売った。


 電気自動車に乗りこむジェイに、青年は声をかけた。


「そういえば、ケーのことは……かまいたちのことは、なにかわかったんですか?」


「いや、さっぱりわからない」ジェイはシートを調整しながら言った。「雲をつかむような話だ」


「そうですか」青年は帽子を脱ぎながら言った。「ジェイさんがいつか、納得できる答えに辿りつけることを願っています」


「そうだな」ジェイは車のドアを閉め、パワーウインドウを下げて言った。「ありがとう」


 自動車修理工場を発進したジェイは、工場の門に車を走らせた。小太りの門衛もんえいは、相変わらず小屋のなかで眠っていた。受付の窓を何回か叩くと、安楽椅子からむくりと起き上がり、のっそりとジェイにむかって歩いた。


「また、あんたか」門衛はあくびをしながら言う。「何度も言いたかないんだがね、おまえさんが工場から出るときは、前もってその連絡が俺までいき届くようにしてくれないか?」


「安心していい」ジェイはきびすを返し、運転席にむかって歩きながら言った。「これが最後だ」


    ※  ※  ※


 その日、ジェイは冷たい家で一人、ベッドに入った。思えばケーが殺されてから、この家で夜を過ごすのは、はじめてのことだった。電気もガスも水道も、ながいこと途絶えた家はほこりっぽく、死の気配に満ちていた。


 寒さをしのぐために、軍払いさげのダッフルコートを着たまま、毛布と布団をかぶった。身体の震えがとまらなかった。しばらくすると、冷えた涙が数滴すうてき、頬を伝い流れた。


 ジェイは眠れずに、家の戸口の外に出た。空を見上げると、めずらしく雲一つなく、満点の星空が広がっていた。その輝きは、噴水があげる水飛沫みずしぶきのように煌めいていた。張り詰めた冷たい風が、ジェイの柔らかな金髪をでた。


 すこしだけ、父親——ディーのこと、母親のこと、そしてケーのことを思った。それから鼻をかんで、ジェイは再びベッドに潜った。


    ※  ※  ※


 ひどい顔で煉瓦れんが造りの家にやってきたジェイに、アイはなにも言わなかった。おだやかに微笑み扉を開けてなかに招き入れると、ジェイが脱いだメルトンのダッフルコートをハンガーにかけた。


「お風呂、湧いてるよ」アイはジェイの背中を押して、そう言った。


 時間をかけて風呂からあがったジェイがダイニングに行くと、食欲をそそる匂いが鼻腔びこうをくすぐった。


 ジェイとアイはむきあって、ぽつりぽつりと話しながら、テーブルいっぱいに広げられた料理を食べた。


 ピロシキ、ボルシチ、つぼ焼ききのこ、ラムチョップのステーキ。もうもうと湯気をたてる料理を片っ端から平らげながら、シャブリを飲み、ウォッカのボトルを空にし、赤ワインをなみなみとグラスに注いでがぶりと飲んだ。


 熱く濃いコーヒーを入れて一息つき、しあげにチョコレートケーキを食べた。酒のボトルがすっかり空になると、ジェイが食器を洗った。その間にアイが風呂に入り、二人でならんでソファーに座って歯を磨いてから、一緒にベッドに入った。


「ねえ」アイは身体のむきを変えながら言った。「明日、大聖堂に行かない?」


「それはいいな」ジェイはアイの頭の下に腕をまわす。「なかなか悪くない」


 すっかり夜のとばりが下りていた。深く沈みこんだように、どこまでも静かな夜だった。


「おやすみ」アイはジェイの胸に顔を寄せて、静かに言った。


 ジェイはアイを見つめてから、まぶたを閉じた。「また明日」

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