第8章 知らず、生まれ死ぬる人
第1節 コンサートホール②、あるいはスラヴ行進曲
首尾よくホワイトハウスから脱出したジェイは、人ごみに紛れてメトロへと溶けこんだ。深度五〇〇〇メートル
初めて降り立ったメトロのプラットフォームは清潔で、空調まで完璧にコントロールされていた。ほとんど音もなく超電導で浮遊走行するリニアモーターカーがやってきたとき、自分がアレクセイの返り血を浴びているんじゃないかと、ジェイは突然不安に襲われた。スマートデバイスを使って、白いワイシャツの襟もとまで確認したが、幸いなことに血痕は見当たらなかった。
深く息を吐いてから、引き金を引き、アレクセイのこめかみに銃弾を撃ちこんだときのことを
※ ※ ※
メトロを降りて地上にあがると、通りの斜むかいにコンサートホールがあった。アイボリーの四角いホールケーキのような外観を一目見て、エフにある廃墟となったコンサートホールを模した建物なのだとジェイは思った。その周りの道路のつくりもほとんどそのままのように思えた。
エントランスの三角屋根を支える巨大な
クレメンザから送られてきた位置情報をVRで確認しながら、ジェイは歩いた。革靴の硬いヒールがタイルの床を小気味よく鳴らす音が響いた。小さな噴水の横を抜けて、白い女の銅像を見やり、歴史の趣きを感じられる階段をのぼった。それから長い廊下を歩くと、目的地のすぐ目の前に到着した。
クレメンザが指定した場所は、眼前にある開かれた両開きの扉を入って、すぐのところだった。ジェイの想像通り、扉のむこうにはコンサートホールが広がっている。
目的地の席の一つとなりに、クレメンザが座っていた。いつもと変わらずにくたびれたスーツを着て、柔らかな皺が刻まれた白いシャツに、ブラウンのナロー・タイを結んでいる。
クレメンザは身振りで腰を下ろすように促した。ジェイは椅子に座り、あたりを見渡した。コンサートホール一面に敷き詰められた席はほとんど満席で、おおくの人が詰めている。ステージではオーケストラが演奏を開始する準備をしていたが、それがいったいなんなのか、ジェイには想像することができなかった。
「今日、最後の演奏がそろそろ始まります」クレメンザは正面の一点を見据えるようにして、静かに言った。
ほどなくしてコンサートホールの重厚な扉が閉められ、指揮者が式台にのぼり、オーケストラによる演奏が始まった。チャイコフスキーの『スラヴ行進曲』だった。
演奏は弱々しく儚げに始まり、怒りが燃え盛るように力を増していき、勇壮で、情熱的な光景をまざまざと描いてから、はじけて快活な旋律へとなだれこんだ。フィナーレには祝祭的な高揚感に包まれて、その幕が切れた。
人々はさも満足げに、惜しみない拍手を送った。しかしその演奏からジェイは、どんなことも感じ取ることができなかった。クレメンザはジェイに感想を尋ねなかった。
あたりが人々の声で賑やかになった頃合いを見計らって、クレメンザは口を開いた。「この曲が初めて演奏されたのは最初の世界大戦の前で、愛国的な熱狂をもって受け入れられたそうです。動乱の最中にあるいま、人々には懐古主義が蔓延しています。政府はそれを利用して、愛国心を焚きつけようとしているのです」
ジェイは無言でクレメンザの顔を覗きこんだ。
「アイさんとエルさんも、ホワイトハウスから脱出していますので安心してください」クレメンザは癖のある黒髪を伸ばしながら言った。「さて、真相を語りましょう」
ジェイは頷いた。
「私はエーの政府に属する人間です。エーから派遣されて、エフの監視を行っていました」クレメンザは静かに言った。「以前にお話ししましたが、私は政府の行いに疑念を抱いており、離反しようとしています」
「それはなぜ?」ジェイは平板な声で訊いた。
「いまはその理由を割愛します」クレメンザは首を横に振った。「順を追って理解していただいたほうがいいと思いますので」
「こみいった話なんだな」
クレメンザは頷き、再び口を開いた。「どう離反するかというと、戦略的に武力を用いて、政府の統治体制を内側から崩壊させようと考えています」
「以前、アレクセイがいるときにもそう語っていたな」
「はい、それは真実です」クレメンザは頷いた。「そのときに話した通り、私の計画の
「このエーを転覆させ得る兵器がエフにあるなんて、想像できないのが正直なところだ」
「そのカギを握る人物が一人います」クレメンザはジェイの目を覗きこんで言った。「ヴォドフライヴィチ――あなたがヴォドと呼ぶ人物です」
ジェイは一瞬言葉を失い、それから言った。「ヴォドを知っているのか? いや、一緒に診療所に行ったときにクレメンザもヴォドと会っているな……。そのときたしか、以前、話を訊いたことがあるって言ってたよな?」
「そのはるか前から、私はヴォドフライヴィチを認識しています。お互いに」
「かまいたちを追って地下に降りたとき、ヴォドが現れたんだ。弱ってほとんど骨だけになった、かまいたちを支えるようにして寄り添っていた。そして僕を拳銃で撃った」ジェイは額に指をあてて訊いた。「なあ、かまいたちってなんなんだ?」
クレメンザは抑揚に欠ける声で言った。「それをたしかめに行きましょう」
あたりの人が減り、静かになりつつあった。クレメンザの話はそこでおわり、二人は席からゆっくりと立ちあがった。
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