第5節 ティー
エレベーターは一切の速力を感じさせなかった。その身体感覚は、エーに初めて降り立ったときのことを、ジェイに思い起こさせた。あらたな事実が眼前に現れる予感があった。
「どうやらスマートデバイスは使えるようだ」アレクセイが言った。
ジェイ、アイ、ティー、エルもそれぞれ自分のスマートデバイスを確認する。たしかに電波を受信していた。
「二層はまったくの異文化というわけではないみたいだな」アレクセイはスマートデバイスを操作し、状況を確認しながら言った。「しかし、二層にたどり着けそうなのは、俺たちだけのようだ」
「二層に到達してからのことを、あらためて打ち合わせましょう」ジェイは言った。
「俺たちが見るものすべては、コンタクトレンズ型ウェアラブルデバイスを通じて、一層に残った同志に共有されている。ヘッドセットから収集した音とセットでな」アレクセイは目とヘッドセットを交互に指でさして言った。「明日には俺たちの居場所をできるだけ特定しにくいかたちに編集して、見聞きしたことがそのまま世間に公開される。二層に突入するところから、その一部始終のすべてが」
四人は短く頷いた。
「これで二層の存在を証明するという目的は果たせるが、できるだけ真相に迫りたい。二層に潜伏して、政府機能の中枢に迫ることを目指す。ARで情報共有をしながら連携をとる」
ながく無音の状態が続いた。エレベーターの中は寒くも暑くもなく、実感のない温度に保たれていた。エレベーターが動いている気配も、空調が作動している気配も感じなかった。
ボタンも階数表示もない、密室の扉をぼんやりと見つめ、ジェイはコンセントレーションを高めた。サブマシンガンの重さだけが、唯一たしかなことのように感じられた。
時間に対する感覚がぼやけて霞み、扉のぱっとしない鼠色が網膜に焼きついたころ、エレベーターの扉が音もなく開いた。
同時に五人はサブマシンガンを構え、腰を落とした。鋭敏な音が響いてから、張り詰めた沈黙が降りた。
そこは建物の中だった。広々としたエレベーターホールで、壁面をカメムシ色のタイルが覆っていた。天井が高く、白い照明が刺すように鋭く、あたりを照らしている。
五人は一塊になり、背後を除いた全方位に銃口をむけたまま、慎重にエレベーターを降りた。全員が降りると同時にエレベーターの扉が閉まった気配があったが、だれもが目線一つ動かさず、硬く静止を保った。人の気配はなかった。
ジェイの眼前に、コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスを介してAR情報とマップが表示された。アレクセイから共有された情報だった。
「AR情報に従って進め。絶対に止まるな」アレクセイは静かに言い、腰を落として勢いよく走り出した。
四人はアレクセイに続き、左右と背後を警戒しながら建物の廊下を駆けぬける。硬い床をコンバットブーツのソールが打つ音が響く。カメムシ色をしたタイルの壁面と、点々と配置されたステンレススチールの扉と、広々とした空間がどこまでも続く、巨大な建物だった。
マップを見る限り、碁盤の目のように張り巡らされた廊下を一キロメートルほど直進すると、ようやく出入口に突き当たるようだった。議長から聞き出した情報とほとんど一致する。
そのとき、渇いた音が響き渡った。突然のことで不意を突かれた。四人は前後に飛び、進行方向の左側に突き当たっている廊下――銃声がした方向にサブマシンガンを放った。その廊下の先には、武装した集団――政府軍が構えていた。
その場にティーが一人、取り残された。空気が抜けた風船人形のように、ティーは身体をよじらせる。意識の外から放たれた弾丸は、ティーの喉を寸分の狂いもなく、正確に貫いていた。
白い照明の光が鋭く降り注ぐ、高い天井を見上げるように、ティーの身体はくの字に折れ曲がり、口蓋と喉にできた暗い穴から、目が痛むほど赤い鮮血を吹きこぼした。重力に屈したように折れ曲がった身体は限界を超え、硬く無機質な床に、後頭部を勢いよく打ちつけ、鈍い音を響かせて倒れた。
政府軍にむかって、ジェイが手榴弾を投げた。次の瞬間、閃光が走り、胸を打ちつけるような轟音が響いた。
ジェイはティーに駆け寄り、褐色の豊かな身体を抱きかかえた。生命力にあふれた黒髪が額からほつれて落ち、血を吐きだした。
「あのとき渡した、タクティカル・ペンは、まだ持っている?」洞穴で鳴る風切り音のような声をティーは絞り出した。
「ああ」
「真相に、たどり着いてくれる?」
「かならず」
「それならきっと、父も母も弟も、救われる」ティーはわずかに薄く笑った。
「ティーの願いは忘れない」
「どうせなら、ターコイズブルーのドレスで、最期を迎えたかった」
ターコイズブルーのドレスと、赤茶けたキャバレーの壁のコントラストが、ジェイの脳裏にフラッシュバックする。くるくる回る花びらのような、盛り場のティー――すこしの混乱が背骨を走り、気が遠のく。
再び走り出したアレクセイを追うように駆け出したアイも、ティーの近くに寄った。
ティーはアイに微笑みかけるように、細めていた瞳を閉じた。「ジェイをよろしくね」
遺体を川に流すように、ジェイはそっとティーの身体をその場に置いた。先に進むアレクセイとエルの背を追い、アイとともに走り出した。
その刹那、五十メートルほど先の角から政府軍の影が見え、嵐のように弾丸が飛んできた。反射的にその場に伏せ、かろうじて回避した。
地面に這いつくばる蝉のような四人にむかって、放物線を描いて手榴弾が投げこまれた。時が進むのが遅くなったように一瞬だけその軌道がゆっくりと見えた。それから四人は立ち上がり、来た道を引き返すように駆け出した。
次の瞬間、斜め左に位置するステンレススチールの扉が半分開いているのを、ジェイが視界の端で認めた。扉に駆け寄ると、そこには黒髪の癖毛に不精髭を生やし、くたびれたスーツを着た男――クレメンザが立っていた。
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