第7章 死は確かなもの、生は不確かなもの

第1節 テロリズム①

「マフィアのドンをさらったときを思い出すな」小声でエルはつぶやいた。「あの頃が懐かしいぜ」


「ちょっと待て」ジェイは額に指をあてて首をひねる。「あのとき、おまえもいたのか?」


「おいおい、言ってくれるじゃねえか」エルはジェイの肩を小突きながら言った。「おまえが乗りこんだバンを運転していたのは俺だぜ」


「そうだったのか」ジェイは驚いたように言った。「もみの木の森に建てたバラックで晩御飯を一緒に食べたときが、おまえとの初対面だと思ってたぜ」


「それも懐かしいな」エルはしみじみと言った。「ずいぶんとわけのわからないとこに来ちまったな」


「わけのわからないものを追っているからな」


「違いねえ」エルは手を叩いて豪快に笑った。


 それを制してジェイは言った。「静かにしろ」


 二人は息をひそめ、椅子から立ち上がるとそれぞれ背をむけるようにして壁に耳をあて、両隣の部屋の様子をうかがった。十秒ほど静止してから、元の位置に収まるようにして戻った。


 テロリストがアジトにしている、廃墟のようなマンションの狭い一室で二人はむきあっていた。


 部屋は湿っぽく、床はざらざらとしていて、壁紙にはよくわからない茶色の染みが付着している。


 隣の部屋で会話している気配が、ジェイとエルにもときどき漏れ伝わる。壁もドアもひどく薄く、粗末なものだった。


 かび臭いエアコンが音を立てて風むきを変えた。それを合図にするようにジェイは備え付けの丸テーブルに置かれたロックグラスを持ち上げ、ストレートのウイスキー――シングル一杯分を一息で飲み干した。


 ジェイは椅子から立ち上がり部屋の明かりを消して、ベッドに潜りこんだ。それに続くように、エルも丸テーブルと椅子を挟んでむこう側のベッドに寝転がった。


 エルは天井を見るともなく見て言った。「願うぜ、明日の成功を」


 部屋に降りた闇は色濃かった。時折、隣の部屋から物音が聞こえたが、二人は構わずに瞳を閉じた。深い眠りがすぐに訪れた。


    ※  ※  ※


 清掃業者などが好んで使う、業務用ホバーカーの助手席から、フロントガラスの先に続く荒れたアスファルトをジェイは見つめた。


 道路はどこまでも真っすぐで、ところどころにクラックが入り、隆起したり、反対に陥没したりしている。荒んだエーの現状を象徴しているようだとジェイは思った。


 いや、エフだって大差ない。人々にとってのかすかな希望――つまり、エーが二層構造であり、豊かだと考えられる二層目への憎悪と憧憬しょうけいがある分エーの方が健全で、テロがない分エフの方が安全というだけの差分。


 ひょっとして、世界はおわりをむかえようとしているのかもしれない。漠然とした予感があった。


 昨晩、エルが言ったことをジェイは思い返す。マフィアのドンを殺したときのことを――直接手を下していないにしても、自分も殺したのだとジェイは思う――、たしかに思い出さずにはいられない。


 お仕置き部屋から、ドンの愛人宅にむけて出発したときの光景が眼前に蘇る。厚い雲のむこうに漂う、陽光の気配――明け方だった――、朝露を払うワイパー・ブレード、ゆっくりと動き出したバン。静かな朝だった。


 ちょうど同じくらいの時刻のはずだが、エーには太陽というものが存在しない。同様にほとんどいつもエフの空を覆っていた、鈍色にびいろの雲もない。


 その代わり、頭上のはるか彼方には、ぼやけた鼠色の壁のようなもの、つまり天井がどこまでも立ちはだかる。屈強な門衛のように。


 ホバーカーが減速したのを感じて、ジェイはコンセントレーションを高めた。まわりの景色はほとんどなにもない荒地から、閑静な住宅街に移り変わっていた。時刻を確認すると、午前九時を少し回ったくらいだった。


 ホバーカーは一棟の邸宅の前で音もなく停止した。いかにも堅牢なコンクリート造の塀で囲まれていて、外からその中はまったく見えないようになっていた。


 運転席の男はホバーカーを降りた。そのあとを追うようにジェイも助手席から飛び降りた。そのとき、後部座席に座るエルと目線が交差した。


 男は塀に取り付けられたインターフォンを迷いなく押した。やや間があってから、議長の妻が応答した。


「政府からの委託で、分電盤の定期点検に参りました」男は事務的に言った。


 ほどなくして、門のドアが自動で開かれた。ジェイと男は足早にその中に入った。斜め右の奥まったところに邸宅の入口があるのが見えた。入り口に近づくと、扉が自動で開いた。


 広く開放的で――一般的にはエーでお目にかかることができない、整然とした清潔なエントランスだった。中に入ると目の前に議長の妻が立っていた。


「すみません、無理を言って日程を変更させていただいて」ジェイは頭を下げた。「急な欠員が出てしまったもので」


「構いませんよ」議長の妻は微笑した。「よろしくお願いします」


 ジェイとテロリストの男はさりげなくあたりを見渡し、エントランスには配電盤がないことを確かめた。


 政府が議会幹部に提供している住居の、維持管理を行う業者を装うことに成功したテロ組織だったが、邸宅の内部構造まで把握することはできなかった。


 分電盤が設置されている可能性が高いのは、エントランス、次いでウォッシュルームかキッチン、あるいはクローゼット――、ジェイとテロリストの男はあらかじめ打ち合わせていた通り、歩きだした議長の妻の斜め後ろをついていくように歩きながら、ウォッシュルームを探すことにした。


 広い廊下の途中で議長の妻は立ち止まり、振り返った。「では、私はリビングにおりますので、なにかあったら呼んでください」


 ドアの微かな隙間から、二人はリビング・ルームを凝視した。娘が一人、ソファに座っているのが一瞬だけ見えた。


 現在、この邸宅にはもう一人――息子がいるはずだった。まず二人はウォッシュルームを探しあて、そこに分電盤があることを確認した。それから息子の居場所を探すために、静かに歩き出した。


 二人は邸宅の中を注意深い猫のように一通り歩き回り、エントランスから一番奥の一つ手前のドアのむこうが、息子の部屋だとあたりをつけた。


「失礼します」二人は何食わぬ顔で部屋のドアを開けた。「配電盤の点検にお邪魔しました」


 部屋の中には大量の衣類が散らかっていた。隅々まで手が行き届いている邸宅にはふさわしくない有様が、二人の眼前に広がる。


 部屋の奥に置かれた、ベッドにもぐりこんでいた男――議長の息子が身を起こした。


「なんだ? おまえら」


「政府から委託を受けて、配電盤の点検に伺いました」ジェイが言った。「……ですが、すみません、配電盤はこの部屋のクローゼットの中だと思っていたのですが、ウォッシュルームでしたね」


「申し訳ありません、失礼いたしました」テロリストの男は頭を下げ、回れ右して部屋を出る素振そぶりりをみせた。


 それを見届けた議長の息子が再びベッドに倒れこんだ瞬間、ジェイが駆け出した。


 素早くベッドに飛び乗り、息子の口に布を突っ込み、さるぐつわをした。


「動いたら殺す。うめき声をあげても殺す」ジェイは冷ややかに告げた。

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