第5節 ヒューマンカウンタ

 先を急ぐ五人の前を、数匹の薄汚れたねずみが駆け抜ける。


 鼠は通りの反対側に渡ると旋回し、奥行きのない暗い目で五人を見た。遠くで火柱があがりあたりが明滅すると、その目が無機質に光った。


 未だ続いている爆撃に動じることもなく、肥えた身体を揺らすように、数匹の鼠はその場で繰り返し、行ったり来たりした。


 一匹の鼠が諦めたように、ひび割れた側溝の中にもぐりこんだ。残りの鼠も同意を示すようにそれに続いて、鈍く光る湿った身体を消した。


「なんなのよ、あの薄気味悪い生き物は」ピーコートの襟を口元まで立てたアイが、身震いをするように言った。


「鼠という生き物です」ケミドフは口元に巻いたマフラーを確かめるように触りながら言った。「おぞましい繁殖能力をもち、とても不衛生です」


「不潔なのは見ただけでわかるわ」


「嫌な記憶が蘇ってくるような気分になる。初めて見たとは思えないくらいに」ダウンジャケットで口元を覆ったティーが言った。「親の仇みたいな――そう、かまいたちのようにさえ感じる」


「細胞レベルの意識下に、太古の記憶が刻みこまれているのかもしれませんね。はるか昔に、鼠から伝染病――ペストが爆発的に広がり、多くの人が亡くなったこともあるそうです」


    ※  ※  ※


 ケミドフが四人を連れてたどり着いた病院は、コンクリート造で、外壁はすすけた灰色をしていた。建物の角はそのほとんどが角砂糖のように崩れ、壁面をクラックが走っている。


 病院は隠れ家のようで、ヴォドの診療所に雰囲気が似ているとジェイは思った。


 誰もいない灰色の待合室に入り――中はほこりっぽく、かび臭かった――、ところどころ座面が破れた長椅子に四人は腰をかけた。


 出し抜けにケミドフが口を開いた。「ここの院長とは個人的に親しくしているんです。仕事上の付き合いで」


「どうして医者とつるむ必要があるんだよ? 新聞記者の仕事で」エルは首を傾げた。


「医者にかかる必要があるものの、堂々と病院に行けない取材対象をここに連れてくるんです」背もたれに乗った埃を指の腹でこすり、息を吹きかけて飛ばしてからケミドフは続けた。「いわゆる闇医者です」


 しばらく沈黙に沈んだのち、ポリ塩化ビニルを打つ、現実味に欠ける妙な足音が響いた。


 五人はその音の鳴る方を見た。そこには白衣に身を包み、見るからにくたびれ切った中年が立っていた。


 ジェイはその男の顔を眺めた。栗色の濃い縮れ毛、呪いのように点々とに刻まれたシミ、暗い鼻の穴から飛び出した毛、白いものが混じる無精髭――


 男はおおよそ、好感を持つことが困難な風体をしていた。


「わけは訊かない」みすぼらしい男はおもむろに口を開いた。「私は診る、ゆえに君たちは結果を知ることになる」


    ※  ※  ※


 ケミドフを除く四人は順々に更衣室に移り、身に着けていた衣類を脱ぎ、検診衣――そのどれもがかなり使い込まれていたが、幸いにも清潔だった――に着替えて、診療台に横たわった。ピラミッドに埋葬されたミイラのように、静かに硬く。


 四人の目の前を、ヒューマンカウンタ――内部被爆を検査する機器が、身体を隅々まで舐めるように動いた。


 全員が検査を終えて、ほどなくしてから、医者は全員を診療室に集めた。


「被ばくしてる」男は宙の一点を見つめて言った。「生きているなど、あり得ないというほど、身体の芯までね」


 ケミドフの顔に驚きが浮かんだ。ほかの四人の顔には疑問符が浮かんだ。


「被ばく?」エルは訊いた。「被ばくって、放射性物質による被ばくのことか?」


 医者は黙って小さく首を縦に振った。


「もしかして、被ばくは一般的なものではないのですか?」ケミドフは尋ねた。


「ああ」ジェイが答えた。「もちろん、被ばくとはどういうことかは理解している。大戦による放射能汚染によって、生物という生物が滅んだこともな」


「でも、人間は被ばくしないわ」アイが静かに言った。「先々のために、放射性物質の処理は行っているけれど」


 四人の前で初めてケミドフは強い口調で言った。「そんなはずはありません。大戦でも多くの人が放射線で亡くなったんです」


「でも俺たちはなんともないぜ?」エルは顎を突き出して言った。


「人間は放射線で死ぬ。しかし君たちは問題なく生きている」医者は言った。「人間かどうか検査するか」


    ※  ※  ※


 代表してエルが検査を受けた。医者は手際よく血液を採取し、心音を聴き、血圧を測り、MRIとCTで全身を撮影した。


 二時間ほどしてから、五人は再び診察室に集まり、医者を囲んだ。


「人間だな。まぎれもなく」医者は縮れ毛を伸ばしながら言った。「それも健康そのものな」


「だから言っただろ、人間に放射線は効かないんだって」エルはさも当然という風に言った。


「人間は放射線で死ぬ。事実、被ばくによる身体障害を発症して、死に至る人間を私も診ている。しかし君たちは被ばくしているにも係わらず、身体的にまったく影響が出ていない」医者は抑揚に欠ける声で言った。「そんなことがあり得るとは思えないが、君たちは戦後に進化した人類なのか、あるいはどこか別のところからやってきたのかもしれないな」


 診察室に沈黙が降りた。天井の照明――角形のLEDライトが、あまりにも白かった。


 強い光はよどんだ空気を切り裂くように、宙を漂う微細な埃の粒を照らしていた。どこか神々しく静謐せいひつで、それでいて混沌としていて、あるいは無機質な波が寄せては返すような時が流れた。

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