第3節 クレメンザ①

 ジェイは語った。地上にあるエフという街のことを。それから、かまいたちのことを。


「僕らはかまいたちを追ってここまできたんだ」ジェイは追加で頼んだビールを飲んだ。「かまいたちが逃げこんだ、井戸の底に降りて」


 ケミドフは微動だにせずにジェイの話を聞き、誰にともなくつぶやいた。「信じられません」


「お互い様だぜ」エルが言った。「見たことねえ車が走ってるしよ、スマートデバイスは圏外だし、現金さえも使えねえ」


「三つ訊きたいことがある」こめかみに指をあててジェイは言った。「ヴォドって男を知らないか? 濃い髭を蓄えていて、熊のような風貌をしている大男だ」


「わかりません」


「そうか」にべもなくジェイは続けた。「次の質問だ。エフにもエム・タイムズという新聞社があるんだ。君が勤めているのは、エーのエム・タイムズってことだよな?」


 ケミドフは驚いた顔をして言った。「その通りですが、待ってください。エム・タイムズが地上にもあるなんて、偶然の一致とは思えません」


「だから僕たちも驚いたんだ」ジェイは再びビールで喉を鳴らした。「最後の質問だ。エム・タイムズにクレメンザって記者はいないか?」


 ケミドフは顎に手をあてた。「わかりません。ただ、クレメンザという名前の知り合いはいます」


 ジェイの眉が動いた。「二十代くらいの男か?」


「ええ」ケミドフは冷えたコーヒーを一口飲んだ。


「黒髪の癖毛で、いつも無表情な奴か?」


「はい。たぶんあなたが思い浮かべているクレメンザと同一人物だと思います。そうとう珍しい名前ですから」ケミドフは深く頷いた。「クレメンザは大学の後輩です。一緒にジャーナリズムを学んでいました」


「大学っていうと、もちろんエーの大学だよな?」


 ケミドフは頷いた。


「先祖代々全員がクレメンザと名乗り、エム・タイムズの記者になり、かまいたちを追っている家系だと、あいつは言っていた」ジェイは言った。


「たしかに、記者の家系だとは言っていました。先祖代々、同じ名前を使っているとまでは聞いていませんでしたが」


「おい、どういうことだ?」エルが首を傾げた。「あのクレメンザ――って、俺はそこまで関わり合いになってないが、あいつは地下の出身だったってことか?」


「だから、そう言ってるじゃない」ティーは顎を突き出して言った。


「ひょっとしてクレメンザは、井戸の底のことも、かまいたちが地下に逃げこむことも知っていた?」アイが宙を眺めてつぶやいた。


「それはどうだろう」ティーは首を傾げた。「あたしたちが知らないことを知っていて、それを隠していたのは間違いないんだろうけど」


「クレメンザは、いっとき僕らと行動を共にしていたんだ」ジェイはケミドフに言った。「そして、あるとき突然消えた。なんの前触れもなく、気づいたら部屋の照明が切れていたみたいに」


「なんとなくわかるかもしれません」ケミドフは天井を見上げるように言った。「クレメンザはどことなく、猫のようなところがありました」


「猫?」エルが訊いた。


「ええ、猫です」


「猫ってなんだ?」エルは眉間に皺を寄せて尋ねた。


 ケミドフは左目で素早く二回、まばたきをした。


 すると目の前に、猫の写真が現れた。なにもない空間に唐突にディスプレイ――それも一切の厚さがなく、また質量も感じず、さながら宙に浮かんだフィルムのようなものが出現した。


 宙に浮かんだ写真にケミドフは手をかざした。写真はジェイ、アイ、ティー、エルの四人をむくように角度を変え、程よい距離まで近づいた。


 ケミドフは訊いた。「この動物を見たことはありませんか?」


「おい、待ってくれや」エルが椅子から立ちあがった。「なんなんだ、この宙に浮かんだ写真は」


「コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイス――スマートコンタクトレンズを介して空中に投影させている、ホログラムです」ケミドフはこともなげに言った。「この動物は見たことありませんか?」


「見たことないな」ジェイは言った。「だいいち、地上に生き物はいないんだ。人間のほかには」


「なんてことでしょう」ケミドフは半開きの口から息を漏らすように言った。「食料はどうしているのですか?」


「すべて人工食料よ」アイは言った。「人間によって開発された肉、魚、卵、野菜もそうよ」


「アイがつくる料理はどれもとても美味しいの」ティーが言った。


「俺の料理だってなかなかのもんだぜ」エルも負けじと言った。


 ケミドフは額に手をあて、考えこむようにしてうつむいた。「腑に落ちません。地上世界のエフには、ホバーカーもスマートコンタクトレンズも、ホログラムもない。それなのに人工食料はある。美味しい料理がつくれるくらいに」


「なにが妙なの?」ティーがせかすように訊いた。


「技術革新にも順序というものがあります。人工食料の開発には、ホバーカーやスマートコンタクトレンズよりも複雑で高度な技術が必要になるはずです。突然変異的に人工食料がつくれるようになることは、まずあり得ません」


 店内に深い沈黙が降りた。五人のほかに客は一人もおらず、店員の姿もずいぶん前から見当たらなかった。まるで十一月のせみのように、存在そのものが消えてしまったみたいに。


 オーディオから流れる古い時代のジャズだけが、ひとしく五人の耳を打った。


 しかし、ジェイ、アイ、ティー、エルの四人にとって、はじめて鼓膜を震わせた音楽は、ひどく不自然で歪なものに感じられた。


「話は変わるが」ジェイは腕を組んで言った。「いま聴こえている音、これが音楽というものか?」


 もはやなにがあっても動じないと決心した古い銅像のように、ケミドフは平板な声で言った。「その通りです」


「そうか」ジェイはしみじみと言った。「クレメンザが言っていた音楽というのは、これのことなのか」

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