第11節 ヴォドフライヴィチ①

 薄暗く湿った路地を、人目を避けて抜ける。数匹の痩せたねずみが通りを駆け抜けた。


 けっして太陽の光が届くことがない――もし仮に届いたとしても、厚い雲越しに射しこむ弱々しいものだが――、暗い場所。


 色という色にとぼしく、風が吹くことはなく、かすれた絵の具のような照明が照らす街。


 地下――エーの第一層は、鉛色なまりいろの街だった。何棟ものコンクリート造のビルが林立し、そこに微かな人の気配があり、いくつかの窓から僅かな明かりが漏れ出ている。


 ビルの裏手で辺りの様子をうかがう。だれ一人いないことを確認して、その建物の入り口に近づく。鈍色にびいろの扉がひとりでに開かれる。


 滑りこむようにして建物の中に入る。埃っぽいタイルカーペットに、革靴の足音が吸いこまれた。現在このビルが表向きにはなにに使用されているのか、思い出すことができない。


 照明は薄暗く、それでいて神経を逆なでするように白かった。細い廊下が長く続く。


 左右に連なるステンレススチールのドアから、人が出てこないことを願い慎重に進んだ。


 人目を気にして、逃げるように移動することになるとは、考えたこともなかった。そう、事実、逃げているのだと彼は思う。


 廊下の奥にあるエレベーターにむかって、ヴォドは歩いた。かまいたち――骨に肩を貸して。二人はぴったりと寄り添うようにして歩いた。


 えらく長い道のりに感じた。時間の感じ方が狂い、何時間も彷徨っているような気分になった。たしかに時間との勝負なのだとヴォドは考える。あらゆる意味において。


 二人は連れだって、ようやくエレベーターホールにたどり着いた。息を殺して、陰から様子を窺う。幸いにも、だれもいなかった。


 いや、このビルで人に遭遇する可能性は、不運にも雷にうたれる確率と同じくらいのものだと、ヴォドは思いなおす。


 エフとの出入り口に近いこのあたりに、ほとんど人は生活していない。また、万が一ここでだれかしらかと遭遇したとしても、ろくでもない連中に違いない。そう考えて、ヴォドはヒップポケットに差しこんだ拳銃のことを思い出した。


 ヴォドはできるだけ静かにエレベーターのボタンを押した。右手は拳銃を握りしめ、左手は骨の肩に手を添えて、エレベーターがやってくるのを待った。救済を待つ信徒のように。


 音もなくエレベーターの扉が開き、ヴォドは拳銃を構えた。そこにはだれもいなかった。二人は素早くエレベーターに乗りこんだ。


 エレベーターの操作盤を覗きこみ、光彩こうさいのデータを読み取らせると動き出した。ほとんど振動も音もなかった。床はざらざらとしていた。


 なかなか目的の階に着かなかった。その間、骨は壁に寄りかかって、やり過ごすようにじっとしていた。身体からはすっかり力が抜けていて、ひどく疲れた様子だった。


 ヴォドは骨の背中をさすった。粘り気のある音がして、手のひらに赤黒い体液がこびりつく。身に着けている、あずき色をしたツイードのチェスターコートの至る所に、血痕が付着していた。


 ようやく目的の階に到着すると、やはり音もなく扉が開いた。二人は足早に外に出て、ビルの出口にむかって歩いた。


 細く薄暗い廊下を進み、ビルの外に出ると、一台のホバーカーが置いてあった。ヴォドはそのドアを開け、助手席にそっと骨を乗せた。


 ヴォドが運転席に乗りこむと、ホバーカーは宙に浮き、ひとりでに走り始めた。道路を滑るようにして。


 ホバーカーはハイウェイを静かに、力強く、すさまじい速力で進んだ。風を切る音がこだまする。ヴォドは気が遠くなるのを感じた。


 ほどなくして、灰色の塀に囲まれた研究施設に、ホバーカーは到着した。その建物は小さいながらも見るからに堅牢で、さながら秘匿性の高い檻のようだった。


 助手席から骨をゆっくりと降ろすと、二人は研究施設の入り口に進んだ。入り口の操作盤がヴォドの光彩を読み、分厚い金属製の扉が開かれた。


 中に入ると同時に照明がついた。その明るさに、ヴォドは目を細める。


 骨の手を引くようにして奥の部屋に進んだ。操作盤を覗きこんで、入り口の扉のロックを解除して部屋に入る。そこには、水のない巨大な水槽が置いてあった。


 ヴォドは空の水槽のなかに、骨を入れた。それから水槽の前に設置されたタッチパネル端末を操作して、天井近くにぶら下がっている呼吸器を引き寄せ、骨の口に取り付けた。


 ヴォドが再びタッチパネルを操作すると、水槽に水が張られ始めた。それを見てヴォドは胸を撫でおろしたように、豊かな口髭を指でとかした。


「これで持ちなおすはずだ」ヴォドは水槽に浸る骨にむかって、穏やかな声で言った。


 部屋の隅に置かれていた、オフィスチェアを引き、ヴォドは勢いよく、豪快に腰を下ろした。


 大きな身体を左右に揺らすと、喉の奥で詰まった悲鳴をあげるように、オフィスチェアは軋んだ音を鳴らした。


 ヴォドの脳裏をばくとした思考が駆け抜ける。寄せては返す波のように。


 目を閉じると、身体が困憊こんぱいの沼に沈んでいるような感覚がやってきた。その沼の温度はぬるく、粘度は高く、頭からつま先まで絡みつくようだった。


 大きく息を吸い、しばらく静止してから吐き出した。風邪をこじらせた野犬が鳴らす呼吸音のような、不吉な音が響いた気がしたが、実際のところどうだったのか、ヴォドにはよくわからなかった。


 薄く目を開けて、部屋を見るともなく見た。巨大な水槽、いくつかの計器、無機質なデスク、ナイフのように鋭い照明、それがすべてで、それ以上のことも、それ以下のことも、ヴォドは感じ取ることができなかった。


 再び目を閉じると、すぐに眠りがやってきた。


――第2部へ続く

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