第8節 林檎園②

 ジェイは診療所の引き戸を開けた。あの日――、血まみれのケーをここに運んだときのように。


 待合室には、スーパーマーケットの職員らしき男が二人と、ヴォドがいた。


「ジェイ君」


 ヴォドは驚いたようにつぶやいた。それから、ジェイの後ろに立つクレメンザを見やった。闇夜にまぎれる、ふくろうのような目で。


「では、私たちはこれで」職員の一人が言った。


 ヴォドは無言で深々と頭を下げた。二人の職員は無表情で引き上げていった。


「かまいたちの被害者が運ばれたと、聞いてきたんだ」ジェイはヴォドに言った。


「亡くなったよ」ヴォドは口髭をなでて言った。「つい、いましがた」


「そうか」ジェイは息を漏らすように言う。「遺体を見せてくれるか?」


 ヴォドは頷き、処置室へ入るように手招きをした。


 ジェイは思い出したように言った。「彼はクレメンザ。エム・タイムズの記者なんだ」


「以前、お話を訊かせていただいたことがありましたね」クレメンザは抑揚に欠ける声で言った。


「ああ」ヴォドは言った。


 診察室のストレッチャーの上に、虚ろな目をした文房具屋の店員――だった肉体が横たわっていた。


 顔は苦痛に歪み、透き通るように肌は白く、身体には無数の穴が開いていた。特筆すべき点は、これといって見当たらないようにジェイは感じた。


「いつも通りだ」ジェイの感想を見透かしたように、ヴォドは言った。「いつも通りの、かまいたちだ」


 ジェイは唇を噛みしめる。


「ケー君のことは――かまいたちのことは、なにかわかったか?」


「少しだけ」ジェイは視線を落とす。「かまいたちは……ケーを殺したのは、父親かもしれない」


「そんな馬鹿な……。奴は――ディーはあれから、一度もこっちに帰ってきていないだろ? 生きているのか死んでいるのかもわからない」


「だから、たしかめに行ってくるよ」


「ディーが生活していた場所がわかるのか?」


「ああ、おおよその見当はついている」そこまで言うと、ジェイは踵を返した。「ただ、いまは今回のかまいたちを追うのが先決だ。ヴォド、遺体を見せてくれてありがとう」


 歩き出したジェイにクレメンザも続いた。ヴォドとすれ違うときに、その顔に一瞥をくれた。明け方の街をうろつく、カラスのような目で。


    ※  ※  ※


 ジェイとクレメンザは別々の車で、南に四時間ほど走って林檎園にたどり着いた。


 夜も更け、濃い夜気やきにおおわれたエフの郊外は、息絶えたように静まり返っていた。道行く車は、ただの一台も見当たらなかった。


 二人は躊躇することなく、林檎園の老婆が住む、小屋の扉をノックした。木製の古い扉は、乾いた音を響かせた。


 長いこと強く扉を叩いたが、小屋は事切れたように沈黙を保っていた。


「反応がありませんね」クレメンザはウールのステンカラーコートのボタンを閉めながら言った。「朝まで車の中から見張りましょう」


 クレメンザが小屋の入り口を見張り、ジェイが林檎園の裏口を見張ることにした。二人はそれぞれ、車をわかりにくい場所に停車させて、エンジンを切った。


 コートで身体を包んで寒さに耐えた。二人は一睡もせずに、それぞれが遂行すべき役割を果たした。


    ※  ※  ※


 やがて夜が明け、空が白み始めた。林檎園は灰色の陽光に包まれた。


 二人はこわばった身体を十分に伸ばしてから、あらためて小屋の扉をノックすることにした。


 今度はすぐに反応があり、床をするような音が近づいてきて、扉が開かれた。


 ファティーグパンツのヒップポケットに差しこんだ、さかり場でティーから譲り受けた、タクティカル・ペンをジェイは握りしめて、半身になった。


「どちら様でしょうか?」老婆は穏やかな笑みを浮かべて二人を見た。


「先日、エフの市街でお会いしたジェイと申します」ジェイは頭を下げた。「昨日は偶然お見かけして、驚きました」


 老婆は虚空を見つめる。「はて……、昨日ですか?」


「覚えていない?」


「ごめんなさい、なんのことだか……」老婆は困ったように首を傾げた。


「一か月弱前に、女性と二人でここにお邪魔したこともありましたが――」ジェイはそう言い、老婆の目を覗きこんだ。「そのことは覚えていますか?」


「あら、あなたここにきてくださったことがあるの?」老婆は眉を大きくあげて言った。「こんなにいい男がきてくれたら、覚えていると思うんだけれども……」


「覚えていない?」


「ええ」宙を彷徨さまようように老婆は首を振った。「残念ながら」


「私のことは覚えていませんか? 以前ここにお邪魔したことがあります」クレメンザは訊いた。


 老婆は首を傾げて、クレメンザをじっと見た。「ごめんなさいね、あなたのことも思い出せないわ」


 薄い沈黙が訪れた。冷凍庫から漏れ出した冷気のように。


「お婆さん、ちなみに昨晩はどうしていましたか?」ジェイは訊いた。


「昨晩ですか?」老婆は額の皺を濃くしながら訊いた。


「はい、実は昨晩、お婆さんが事件に巻きこまれたんじゃないかって話が持ちあがったんですよ」クレメンザは柔らかい声で言った。「それで心配してきたんです。でも、無事でよかった」


「そうだったんですね」老婆は驚いたように言った。


「それで、昨晩は?」ジェイは穏やかに尋ねた。


「近所のスーパーマーケットに缶詰を買いに行って、夕ご飯を食べて、すぐに寝てしまいましたわ」老婆は指を折るように言った。


「それは何時くらいのことでしたか?」


「買い物に行ったのが十七時過ぎで、夕ご飯を食べたのが十九時頃、ベッドに入ったのが二十二時ごろかしら」老婆はすらすらと答えた。「いつも通りの生活なのよ」


 老婆が買い物に行ったスーパーマーケットの場所を、二人は訊いた。その場所は、林檎園から車で二十分程のところにあった。二人は老婆に礼を言い、話を切り上げた。


「なにかあったら、またいらしてくださいね」老婆はそう言い、微笑みながら扉を閉めた。


 二人はクレメンザの車の中で話した。


「釈然としませんが、認知症を発症していると解釈するのが自然でしょうか……」クレメンザはつぶやいた。


「もしくは、まったくの別人に入れ替わっているとか?」


 クレメンザは、あり得ないことでもない、といった風にゆっくりと頷いた。


「スーパーマーケットに行った時間が事実ならば、エフの市街で僕と遭遇することも、かまいたちがあった時間に文房具売り場を訪れることも、物理的に不可能だな」


「お婆さんから訊いたスーパーマーケットに裏を取りに行きましょう。私が行った方がスムーズに事が運ぶと思うので、任せてください」クレメンザはそう言いながら、車のナビゲーション端末を操作して、目的地の座標をプロットした。「あなたはここで、念のため老婆の小屋を見張っていてください」


 ジェイは自分の車を小屋が見える地点に移動させた。それを見届けてから、クレメンザの黒いセダンは音もなく発進した。

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