第8節 井戸の底
通路は長く、先が見えなかったが、明るかった。
ジェイは通路の地面、壁面、天井を眺める。継ぎ目が一切見当たらず、鉄の塊を削り出して造られたような印象をうけた。
しかし、その材質はあきらかに鉄ではなかった。ジェイは黒い壁にそっと手を触れる。壁は温かくも、冷たくもなかった。
天井に照明が一筋走っている。照度は程よく、その光は白かった。床には赤黒い湿り気が点々と続いている。つい先ほど、骨がここを歩いたのだ。
「いったいここは、なんだと思う?」エルは尋ねた。
横を歩くエルをジェイは見た。短く刈り上げられた金色の髪、青い瞳、無精髭、骨張った骨格。その顔には疲労の色が浮かんでいた。
「さあな」ジェイは前をむいて言う。「一つ言えるのは、コンセントレーションを切るには、まだ早いってことだな」
「コンセントレーション?」
「集中力さ。いま考えるべきでないことは、あとから考えればいい。疲れに身体の主導権をわたすな」
通路はどこまでも真っ直ぐだった。真っ直ぐなのだと、ジェイは思う。ただし実際にはわずかに曲線を描いているのかもしれないし、高低差があるのかもしれない。人知れず身体の感覚を奪う、磁場が狂った深い森のような奇妙さをジェイは感じた。
しばらく進むと、両開きの扉に突き当たった。その扉は、壁面の中心に縦方向の合わせ目があるだけの、極めてシンプルなものだった。スイッチの類は見当たらず、引き手もなかった。
ジェイが手を触れようと近づくと、扉は音もなく開いた。その奥は、正方形の小さな部屋になっていた。
ジェイとエルはお互いに目を見合わせて、その中に入った。二人はそれ以外の選択肢を持ち合わせていなかった。
二人が部屋に入ると、扉は音もなく閉じた。開いたときと、まったく同じように。
「なんなんだ、この部屋は」エルは四方を見渡す。「閉じこめられたのか?」
「エレベーターなんじゃないか?」
「エレベーター? これが?」エルは首をひねる。「ボタンもないし、階数表示もないぜ。おまけに振動だって感じないし、動いてる気配もない」
「この場所は、僕たちが知る世界とは異なるのかも知れない」ジェイは腕を組む。「とにかく待つしかないだろう」
おおよそ五分後に、音もなく扉が開いた。どこかに到着した気配や、振動は一切感じられなかった。
扉のむこうは薄暗く、二人の目が慣れるまでに時間がかかった。空気が張り詰めていて、スマートデバイスであたりを照らす気にはならなかった。
二人はその空間の広さに驚いた。暗いことと相まって、部屋がいったいどこまで続いているのか、見当もつかなかった。
これまでに通ってきた通路や、エレベーターと同じく、部屋の床も天井も――おそらく壁も黒かった。これ以上は黒くできないというほどの、純度一〇〇%の黒さだとジェイは思った。
これまでと異なっていたのは照明だった。照明の数が極端に少なく、またその照度もごくささやかなものだった。
暗く広い空間で、二人は耳をすました。どこか遠くから、革靴のような足音と、衣擦れの音が微かに聞こえた。
二人は顔を見合わせて、無言で頷く。拳銃を握りしめ、足音を殺して、音がするほうにむかって静かに歩き出した。
二人の前を歩く気配に、次第に近づいた。足元をよく見ると、骨が歩いたあとにできる、赤黒く湿った跡があった。
聞こえる足音が近くなり、その輪郭――二つの人影が朧げに見えた。二人はその人影に気づかれないだけの距離を保ち、あとをつけた。
二つの人影は、お互いに身を寄せ合うようにして歩いている。革靴の足跡と、湿った足音が交互に響く。やがて人影は壁にたどり着き、その動きを止めた。
人影の一つが、壁を覗きこむような仕草をみせた。すると壁の一角が開き、奥の部屋が出現した。
二つの人影が奥の部屋入ろうとしたそのとき、その一つがジェイとエルのほうを振りむいた。人影は二人を見やり、動きをとめた。二人は拳銃を構えた。
奥の部屋から射す照明の光が、二つの人影を照らしていた。一つは赤黒く濡れた骨――ティーであり、かまいたちだったと思われるもの。もう一つは、熊のようにおおきな体躯、豊かな口髭、伸び切った眉毛、茶色い瞳――そこにいたのは、ヴォドだった。
「なにをしているんだ?」銃口をむけたままジェイは訊いた。
ヴォドは応えずに、ジェイの目を静かに覗きこんだ。隣に立つ骨を支えるようにして、ヴォドは身じろぎ一つしなかった。
「もう一度訊こう。なにをしているんだ? ヴォド」
ヴォドは口髭をとかしながら口を開いた。「こんな日が、いつかくると思っていたよ」
鉄壁のような沈黙が降りた。その場でお互いの目を見たまま、ジェイもヴォドも動かなかった。
沈黙は突然破られた。ヴォドはヒップポケットから拳銃を引き抜き、その銃口をジェイにむけると同時に引き金を引いた。鈍い音が響き、ジェイはその場に倒れた。
エルがヴォドと骨にむかって発砲する。何度も引き金を引いたが、あたらなかった。二人は構わずに奥の部屋へと進んだ。
二人の影が奥の部屋に消えると同時に、ジェイはヴォドが顔を覗きこんでいた壁に銃口をむけて。弾切れになるまで引き金を引いた。開いたままの扉から、白い光が漏れていた。
ジェイは立ち上がり、撃たれた肩を抑えて、開かれた扉に進んだ。血が床に垂れた。エルもそれに続いた。
扉のむこうには、広大な空間が広がり、巨大なビルが林立していた。ヴォドと骨の気配は消えていた。幻だったかのように。
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