第7節 もみの木の森②

 白い朝日に照らされて、ティーは蜃気楼のように立っている。


 豊かな黒髪、はっきりとした目鼻立ち、すらりと長い褐色の手足、血とターコイズを煮詰めたような色のドレス――現実味のない光景だとジェイは思った。


 ティーはスプーン一匙ひとさじの感情もない目でジェイとエルを見た。それから歩き出した。


 むかってくるティーに、二人は拳銃を撃ちこんだ。繰り返し引き金を引き、乾いた音が何度も響いた。


 肩を、胸を、腹を、脚を弾丸が貫く。ティーは止まりかけの駒のように傾き、膝から崩れ落ちた。


 両膝を地面につけて、うつむき加減でティーは静止した。逆光になっていて、二人が立つ場所から、その表情をうかがい知ることはできない。


 水を打ったような静寂が、あたりを包んだ。


 遠くで樹から雪が落ちる音が鳴ったのを合図にするように、再びティーは立ち上がった。ティーと視線が交差する。交差したのだと、ジェイは思う。


 ティーは踵を返して、駆け出した。一拍遅れてジェイとエルも走り出す。


 深く濃く広がる、もみの木の森に、急きたてるような足音が響く。三人は森を走った。枝の隙間から灰色の陽光が射しこんでいる。


 すっかり朝が訪れていた。濁り、曇ったエフの朝。弱い陽光を浴びて、駆け出したティーを追いながら、ある予感がジェイの背中を走った。なにかがおわり、なにかが始まる。


 満身創痍に見えるティーの動きは早く、走った後には血の跡が点々と続いた。ジェイとエルは必死に走った。酸素が薄く感じ、脈々と血流を全身に強く送り出す、心臓の鼓動が感じられ、身体は徐々に倦怠の沼に沈んでいった。


 走り始めて三十分が経過したころ、底なしの体力に思えたティーの動きが、徐々に鈍くなっていった。ティーは多くの血を流していた。無理もないとジェイは思う。身体中、弾丸でできた穴だらけなのだ。


 気づけば、チェーンソーを持ったアイと再会した地点にいた。ケーが殺されて、アイと再会してからの日々が、無意識にジェイの脳裏をかすめる。


 十キロ近い距離を駆け抜けたティーはスピードを緩め、彷徨うような歩みになった。ジェイとエルは警戒し、いつでもティーを取り押さえる距離を保ちながら、そのあとを追う。


 そのときがやってきた。ティーは完全に立ち止まり、動きを静止させて天を仰いだ。まるで祈りをささげるように。もみの木々の合間から、かすかな光が射していた。


 次の瞬間。ティーの頭頂からつま先に至る一切のすべて、頭髪、皮膚、爪、もとはターコイズブルーだった朱色に染まったドレスが、湿った音をたてて、崩れ落ちた。


 目に見えるなにもかもを、ティーは一瞬で脱ぎ捨てた。脱皮する蛇のように。ティー――いや、かつてティーだったものは、わずかな筋肉と、臓器のようなものを残して、赤黒く濡れそぼった骨になった。


「なんだこれは」色をなくし、ジェイがつぶやく。


 赤黒く濡れた骨は歩きだした。骨が歩いた後は赤く滲んだ。ジェイはその歩みの先に目をむけた。そこには、古びた煉瓦れんが造りの井戸があった。


 ジェイの頭にある映像が浮かぶ。井戸のふちに落ちていた、頭皮ごと抜け落ちた毛髪、まだあたらしい濁ったピンク色の肉片――アイと再会したときに見た光景。骨がすべてを脱ぎ捨てた地点を見やった。そこに落ちている、毛髪、新鮮な肉片、血まみれのドレスを眺めた。


 骨は弱々しい足取りで井戸に近づいた。そのふちに静かに手を置くと、身を乗り出して井戸の中に入った。ジェイとエルは慌ててその場に駆けよる。


 二人は井戸の中を覗きこんだ。壁面に梯子はしごがかかっていて、骨がゆっくりと降りていくのが見えた。中は暗く、すぐに骨は見えなくなった。しばらくすると、骨が地表に達した気配が伝わった。


「降りよう」ジェイは言った。「井戸の底に」


「正気かよ」エルは乾いた唇を動かした。


「目に見えるものがすべてだ」ジェイは身を乗り出す。「僕は行くよ」


 ジェイは井戸のふちに手をかけて、その中の梯子を掴んだ。梯子は湿っていて、耐え難い腐臭がした。ジェイは無心で地表を目指して、ゆっくりと降りた。


 井戸はそれほど深くなく、すぐにジェイは地表に降り立った。ファティーグパンツのポケットからスマートデバイスを取り出して、あたりを照らした。骨の姿は見えなかった。


 ほどなくしてエルも梯子を降りて、井戸の底にやってきた。


「見ろよ」目の前に広がる、ぽっかりと開いた空間を示してジェイは言った。


「なんだ、これは」


 井戸の壁に操作盤のようなものがあり、開かれた扉のむこうに通路が続いていた。風があることにジェイは気がついた。


 ジェイは壁に取り付けられた、操作盤を覗きこんだ。それはこれまでにジェイが見たことないような造りの――ジェイが知る文明とは、ことわりことにするものだった。


 まず第一に、紙のように薄かった。壁に埋め込まれているのかと思ったが、そうではなかった。


 そして第二に、つるりとした制御盤の表面を触っても、どんな反応もなかった。ボタンの類は一つもなく、どうやらタッチパネルディスプレイでもないようだった。どんな材質でできているのかも、ジェイにはわからなかった。


 覗きこむジェイの光彩こうさいから情報を取りこみ――少なくともジェイにはそう感じられた、制御盤は作動した。


「まずい」


 ジェイがそう言ったとき、目の前に扉が降りてくる気配があった。ジェイは素早く拳銃を引き抜き、操作盤にむけて発砲した。操作盤を破壊すると、扉が閉まる気配がおさまった。


「行こう」エルを振りむき、ジェイは言った。「この奥に」

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