第10節 黒い海

 ジェイとアイ、それからクレメンザは、果てしなく続く黒い海を眺めた。電線に詰めるカラスのように、横一列に並んで。


「死んでいる」ジェイはつぶやいた。


「海を見たのは初めてですか?」クレメンザは訊いた。


「ああ」ジェイは正面を見据えたまま言った。「海を見に行こうなんて、考えたこともないしな」


「私も初めて」アイが目を細めながら言う。


 海は死んでいた。はるか昔――戦争が始まって、間もない時期から。息が絶え、事切れてから、長い時間が経過していた。


 鉛のような海が、深々と雪を浴びる。遠くに見える、崩れた送電線タワーと、その役目を終えた抜け殻のような灯台に雪が積もる。


 それがすべてだった。漠とした海が三人に伝えるべきことは、なに一つとして存在しなかった。


「この寒さなら、今夜にでも海は凍るでしょう」クレメンザは言った。


「嘘でしょ?」アイが目を見開く。「信じられない」


「明日になればわかりますよ」クレメンザは曖昧に微笑んだ。「さあ、情報を集めに行きましょうか。ジェイさんのお父さんの行方をあきらかにしましょう」


    ※  ※  ※


 ジェイの父親――ディーの写真を携えて、三人はそれぞれ別行動で情報収集にあたった。


 ジェイは海岸通りの入り組んだ道を歩いた。道行く人は見当たらず、息をひそめたひょうのように、あたりは静まり返っている。


 しばらく進むと、うらびれた食堂が目についた。低い丘の上に、古ぼけた集合住宅が立ち並び、その一階の一角が食堂になっていた。


 ジェイは食堂の戸を押し開けて、中に入った。木製の扉は軋んだ音を鳴らした。


 ぼやけた印象の店内を、ジェイは見渡した。港町で働く労働者風の中年が三人、奥の席に陣取っている。


 テーブルには、ウォッカのグラスと、スープがよそわれた皿が並んでいる。防寒着を着こんだ三人の男たちの肌は赤黒く、乾燥していた。


 彼らは黙りこくって、ときどき思い出したようにグラスとスプーンを交互に口に運んだ。皆そろって、食卓で取り上げる話題は持ち合わせていないようだった。


 ジェイは店の手前に目線を移した。L字型のカウンターがあり、そのむこうに、り切れた肌着みたいな風貌の女が丸椅子に腰をかけ、背中を丸めてじっとしていた。


 ジェイは女に近づいた。


「お好きな席にどうぞ」女はジェイを見ずに言った。


「ちょっと伺いたいのですが」


 女は前かがみの身体をゆっくりと起こして、ジェイを見た。女の瞳は枯草のような茶色で、髪の毛には白いものが混ざり、乾燥させたわらのようだった。


「なんだい?」投げやりに女は言った。


「この男を見かけたことはありませんか?」ジェイは女にディーの写真を見せた。


「ディーじゃないか」


「知っているんですか?」


「よくこの店にもきてたよ」女は立ち上がり、奥の席に座る三人の男にむかって、声を張り上げた。「なあ」


「なんだって?」男の一人が立ち上がり、怒鳴るように言う。


「だから、ディーだよ。十年くらい前に、この店によくきてた」


「ああ……」記憶をたどるように男は宙を見た。「懐かしいな」


 別の男も口を開く。「もうずいぶん前のことだな。毎日のように、あいつと酒を飲んでたのは。妙な奴だったな。仕事なんてありゃしないのに、港町に移り住んできてよ」


「あまり仕事がないんですか? 港町には」ジェイは尋ねた。


「そりゃそうだ。こんな最果ての地に、いったいなにがあるっていうんだ?」さもおかしそうに、男は言った。「どうしようもない放射性物質が運ばれてきたときと、ウランの輸送ぐらいしか仕事はないさ」


「それももう長い間、絶え絶えになってる」


「この男が今どこで、なにをしているか、ご存じの方はいませんか?」ジェイは男たちの声量に負けじと、太い声で言った。


「死んだよ」


 乾いた沈黙が訪れた。


「死んだ?」


「ああ」カウンターの中の女は、丸椅子に腰を下ろしながら言った。「とっくの昔にね」


    ※  ※  ※


 港町にただ一つしかない、薄暗いホテルに三人は戻り、クレメンザの部屋に集まった。各々が集めた情報を持ち寄って。


「すでに死んでるな」ジェイは平板に言った。「父親――ディーは」


 アイにもクレメンザにも、驚きの色は浮かばなかった。


「だいたい同じような情報を得てると思うが、僕から話そうか」ジェイは話を続けた。「父親が港町にきたのは、十一年前。これは家を出て行った時期と一致する。仕事を求めてやってきたと言っていたらしい」


 部屋の空調が、まぬけな悲鳴のような音を短く響かせた。


「みんな妙だと感じながらも、わりとすぐに父親は港町にとけこんだ」


「変に思われたのは、この港町にはろくに仕事がないから?」アイは訊いた。


「そう」ジェイは頷く。「ただ、住人は父親がなぜこの地にきたのか、深く訊かなかったらしい」


 ジェイはそこで一息つくと、備え付けのテーブルの上に置かれたグラスを口に運び、ウォッカを一口飲んだ。


「それから父親は一年近く、ほとんど毎日、酒を飲み歩いた」ジェイは手に持ったグラスをテーブルに置いた。「そして、ある日突然、自ら命を絶った。その身を海に投げて」


 クレメンザは深く頷いた。「私が訊いた話も、同じようなものです」


「私も同じく」アイも言った。「振り出しに戻る、か」


    ※  ※  ※


 翌日の早朝、三人は港町をつ前に、再び海を見に行った。


 クレメンザが言った通りに、海はたしかに凍りついていた。見るからに薄氷はくひょうで、踏めば破れそうに頼りなげだった。凍った海も、石炭のように黒かった。


 凍てついた海を見て、アイはひどく驚いた。クレメンザは得意げな素振そぶりを微塵みじんも見せなかった。

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