第5章 地下に降りる
第1節 診療所
「父親は、ずいぶん前に死んでいたよ」灰色の診療所で、ジェイは言った。「家を出ていった一年後にね。自ら命を絶ったんだと」
「そうか……」ヴォドは豊かな口髭を撫でながら言った。「ケー君を殺したのは、ディーではなかったか」
「どう言葉にしたらいいか、わからないんだ」ジェイは乾いた声で言った。「かまいたちが父親だったら、どんなに楽だっただろう」
二人きりの待合室に、
港町からエフの市街地に戻った翌日――つまり今日、ジェイは朝食もとらずに診療所を訪れ、ヴォドに心境を
この世の残酷さに
ヴォドはいつも、静かにゆっくりと頷きながら、ジェイの声に耳を傾けた。
「かまいたちは父親だと、思いこみたかったんだ、僕は」眉根を寄せてジェイは言う。「父親を断罪し、拳を振り下ろしたかったんだろう」
「ジェイ君がたいへんな思いをして生きてきたことを、私は知っているよ」ヴォドは柔らかな声で言った。「君がそう思うのも、無理からぬことだ。至極、当然のことだと思う」
ジェイは膝の上で両手を組み、身じろぎ一つしなかった。ヴォドは俯き、少しだけ身体を震わせた。
「それでも僕は、真実にむかう意志を失ったわけじゃない」ジェイはパイプ椅子から立ち上がる。「行くよ」
※ ※ ※
その日の午後、アイの家にクレメンザがやってきた。そこにはジェイもいた。
これまでに起こった、かまいたちに関する情報を、三人はあらためて並べて精査した。数学上の未解決問題に挑む、研究者のように。
目撃情報や、その場所、時期、時間帯などに法則性がないか見極めるために、その一つ一つをエフの地図にプロットした。
「二人は一緒に生活しているのですか?」息抜きの時間に、熱いコーヒーをすすりながら、クレメンザが言った。
口を開こうとしたアイを制して、ジェイは訊いた。「なぜそう思った?」
クレメンザは、かたちの良い額に指をあてて言った。「ジェイさんがコーヒーを運びましたよね? マグカップをトレーに載せて」
「ああ」ジェイは大きく二度頷く。「わかったよ、アイになにも訊かずに、トレーの場所を知っていたからか? 僕が」
「ほかにもあります」クレメンザは無表情に言った。「トイレの場所も尋ねなかったし、メモに使う紙もペンもジェイさんが持ってきてくれましたし、それから――」
「わかった」ジェイは話しを遮った。「その推理力は、別件――じゃないな、本件で発揮してもらいたいもんだな」
「ただの成りゆきよ」アイは唇を尖らせて言った。「一緒に暮らしてるのは」
「これからも、二人は一緒に生きていくんですか?」クレメンザは二人に尋ねた。
「そうなったら良いと、僕は思っている」
ジェイがそう言ったとき、ストーブの上に置かれた
アイは使いこまれた木製の椅子から勢いよく立ち上がり、ストーブに駆け寄って薬缶を持ち上げた。
薬缶は空っぽになっていて、予想外の軽さから、思いのほか勢いよく宙に持ち上がった。
まるで重力から解き放たれたかのように、ジェイには見えた。
※ ※ ※
「発生時期と、その頻度に法則性は見当たらないな」身体を大きく伸ばしながら、、ジェイは言った。「しいて言うならば、頻度が高まっているということくらいか」
「ただ、発生場所には法則があるわね」マグカップを持ち上げながら、アイは言った。「エフの市街地から、車で四時間くらいの範囲でしか起こっていない」
ジェイは頷く。
「一番気になるのは」クレメンザが言う。「もみの木の森が起点になってそうなことですね」
三人はテーブルに広げたエフの地図を、息をのむように眺めた。
豊富とは言い難い、かまいたちの目撃情報があった地点と、その証言から考え
その結果、かまいたちの動きを推察した矢印の多くは、もみの木の森から始まり、もみの木の森に帰っていた。
「だけど、一部の例外もあるわね」アイは首をひねる。
「イレギュラーと捉えて問題ないだろう。たまたま違うルートで動いたとか、あるいは予期せぬ事態に陥ったとか」ジェイは地図を見つめたまま言った。「そもそも目撃情報の、たしからしさは疑問だが……。しかし、そんなことを言ったらきりがない。いまのところこれは、法則だと考えていいだろう」
「かまいたちは、もみの木の森から現れて、もみの木の森に去ってゆくのかもしれない」クレメンザは詩的につぶやいた。「もみの木の森の周辺情報に詳しい人を探しましょう」
「心当たりがあるぜ」こめかみに指をあてて、ジェイは言った。
※ ※ ※
「もみの木の森に詳しい人ですか?」情報屋のエイチは、電話越しに言った。
「ああ」ジェイは頷く。「もみの木の森で起こる、日常的な事柄を把握してるような人はいないか? たとえば、森で生活してるような人」
しばし沈黙があった。その間、受話口からどんな音もジェイには聞こえなかった。
「もみの木の森のなかに、不良の森と呼ばれる場所があります」
「不良の森?」
「ええ、もみの木の森を根城にしている、不良の集団がいるんです」
「いいじゃないか」ジェイは口角をあげた。「知り合いはいないか?」
「残念ながら、いません」エイチはきっぱりと言った。「というよりも……、彼らは話が通じるような相手ではありません」
「どんな連中なんだ? 具体的には」
エイチは一拍置いて答えた。「なんとも表現し難いのですが……、イカれた奴らですよ。一目見れば、その意味がすぐにわかると思います」
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