第4節 図書館
「そんな顔をしないでください」エイチは申し訳なさそうに微笑んだ。「気持ちはよくわかります」
ジェイは唇をかみしめてから言った。「かまいたちの謎を解くのは、一筋縄ではいかないということはわかった」
「それはそうです。なにせ、これまでに誰一人として、かまいたちに迫った人はいないんですから」
ジェイは考える。「なあ、そもそも、かまいたちっていつから起こるようになったんだ? 物心ついたころから聞いてはいたが」
「正確なところはわかっていません」エイチは灰皿で煙草の火をもみ消した。「新聞記事を追ったところ、初めてそれらしき事件が起こったのは、おおよそ六十年前でしたが」
「戦争が終わって、何十年か経ったくらいか?」
「そうです」エイチはサルシッチャをナイフで切りながら言った。「手口はそのときから変わっていません。刃物による刺殺です」
ジェイはエイチが握るナイフを見つめた。刃先が食堂の黄色味を帯びた照明に照らされて光った。
「かまいたちが起こるようになってから、しばらくは数年に一度の頻度で事件が起こっていたようです」エイチは言った。「それが近年では、年に一度くらいの頻度になってきている。つまり、事件が起こるペースがあがってきてるのです」
「それが意味するところはなんだろう?」ジェイは首を傾げた。
「わかりません」
そう言うエイチの目をジェイは覗きこんだ。瞳の奥から静かな
「そんな目で見ないでください」きまりが悪そうにエイチは言った。「かまいたちを十年も追い続けているにもかかわらず、正体がわからないということしか、わかっていないんです」
※ ※ ※
小屋のような食堂を出てエイチと別れると、ジェイはその足で図書館にむかった。
分厚いメルトンのダッフルコートも、風になびく稲穂のような金色の髪も、大いに煙草の臭いを吸っていた。
空っ風が吹くたびに、その臭い――ジェイには諦めの象徴のように感じられた――が、
図書館は食堂から歩いて五ブロックほどの距離にあった。通りを往来する車はなく、道行く人も見当たらない。エフは静まりかえっていた。蝉の抜け殻のように。
そのとき細い脇道から、突然ジェイの目の前に小さな黒い影が飛び出してきて、身体に当たった。
黒いオーバーコートを着こんだ、背筋が曲がった老婆――かまいたちがあった林檎園の、あの老婆だった。
「こんにちは」ジェイは驚き、声をかけた。「こんなところでお会いするなんて」
「これはこれは、失礼しました。年をとると、とっさに人をよけれなくなるから、かないません」老婆は腰をさすりながら言った。「ところで、どこかでお会いしましたかな?」
「ついこないだ、かまいたちの話を聞きに、林檎園に伺ったジェイです」
老婆は宙を眺めるようにして静止した。「はて……」
牧草を悠然と食べる牛のように、ジェイは老婆の目を見て次の言葉を待った。老婆の目の周りには、干ばつが起こった大地のように、深い皺が刻まれている。
「すみません、行かなければならないものですから」老婆は困ったように笑うと、会釈をして歩き出した。
「ちょっと待ってください」
ジェイが声をかけると老婆は立ち止まり、やおら振り返った。
「なんでしょうか?」
「僕が林檎園に伺ったことは、覚えてない?」
「ええ……。申し訳ありませんが、なんのことかさっぱりでして」老婆は首をひねった。「では、これで」
ジェイはその場に立ち尽くして、去り行く老婆の背中を眺めた。
丸まった小さな背中は次第に遠ざかり、通りのむこう側に横断すると、細い路地の中に吸い込まれるようにして消えていった。
※ ※ ※
図書館は灰色の建物で、その入り口は濁ったガラス張りになっていた。
ジェイはエントランスに続く階段を上り、図書館の自動ドアをくぐった。フロアに入ると、すぐ目の前に設置されたカウンターに座る、レファレンス係の女に声をかけた。
「お願いがあるのですが」
レファレンス係は、細い金属製の眼鏡のテンプルに人差し指をあててから、目線をあげてジェイを見た。
女の髪は亜麻色のショートカットで、どことなくアイに似た雰囲気だとジェイは思った。アイウェアのモデルの仕事をしているときのアイは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
「なんでしょうか?」
「かまいたちの記事が載っている新聞記事を、ありったけ揃えてほしいんですが」
レファレンス係は、ゆっくりと瞬きをしてから言った。「それはこの図書館にあるだけ? それとも、世の中にあるすべてを求めている?」
「この図書館にあるだけで構わない」
レファレンス係は無言でデバイスを操作した。それから、ゆっくりとオフィスチェアから立ち上がった。
「少しお待ちください」
レファレンス係はそう言うと、カウンターを出て行った。賢い伝書鳩のように軽やかに。
ジェイはフロアの窓際に置かれた椅子まで歩き、腰をかけた。図書館の中には数人の老人がいたが、彼らはなにをするでもなく、ただ椅子に座っているだけだった。
窓の外をジェイは眺めた。こびりついた汚れで窓ガラスは曇っていて、外の風景は蜃気楼のようにぼやけていた。
色彩を失った枯れ木が図書館の周囲を取り囲むように林立し、その隙間から灰色の空が見えた。
しばらく待つと、レファレンス係が新聞の束を胸に抱えてやってきた。「これがすべてです」
窓際に備え付けられたデスクに、レファレンス係は新聞を置いた。弾みで図書館のよどんだ空気が舞い上がる。
ジェイはレファレンス係に礼を言い、新聞をめくり始めた。朽ちかけた紙特有の匂いがした。紙面を触る指がざらついた。
新聞はすべて、エム・タイムズ社のものだった。かまいたちの記事を追い始めて、ジェイはあることにすぐ気がついた。記事を書いているのは、すべてクレメンザという名前の記者だった。
ジェイは新しい記事から、古い記事へと遡っていった。十年前の記事、三十年前の記事、五十年前の記事――どこまでいっても、記事を書いているのは全部クレメンザという新聞記者だった。
クレメンザという名前をスマートデバイスに書き留めると、ジェイは新聞の束をまとめて席を立った。レファレンス係に新聞を返却して、図書館をあとにした。外は風が冷たかった。
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