第2節 盛り場②
かつて――戦争の前は、往来する船舶で賑わっていた港町の西で、
二人が盛り場の最寄り駅に着いたのは、日が傾き、街が赤く染まり始めた
くすんだ緑色の屋根の駅舎を出て、ジェイはあたりを見渡す。
ロータリーには、見上げるほど巨大な人型の銅像が置いてあった。
銅像はその左半身が大きくえぐれていて、その姿は今にも息絶えそうにジェイには見えた。往来するまばらな人々は、銅像のことなど気にも留めていない様子だった。
駅舎からのびる、真っすぐな長い通りを二人は歩き始めた。アスファルトの道路は凍結していて、両脇にほとんど枯れ果た、骨のような樹木が立ち並ぶ。
五分くらい歩いてから、ジェイは言った。「ヒッチハイクをしよう」
スマートデバイスを見る限り、盛り場までは歩いて三十分近くかかりそうだった。
「駄目よ」アイは首を横に振った。「このあたりは日が暮れると、信じられないくらい治安が悪くなるの」
「大丈夫」ジェイは笑う。「任せてくれ」
通りかかった車を呼び止めた。金は払うから、盛り場の近くの考古学博物館跡地まで乗せてほしいとジェイは交渉した。
ドライバーの頭は禿げ上がっていて、歯がほとんどなかった。
男は品性に欠ける笑顔で顎をしゃくった。「乗りな」
ジェイとアイは後部座席に乗り込んだ。ドライバーはオートパイロットから、マニュアルモードに切り替えて、ステアリングを握った。シートにはタバコの匂いが染みこんでいた。
五分くらい車が走ると、あたりに林立する樹木の背丈が一段と高くなった。木と木の間に日が落ち、街に紫がかった残照が映えた。そのときだった。
「知らなかったのか?」ドライバーは通りの脇に車を停めながら言った。「様子が変わるんだぜ。日が暮れると、このあたりは」
崩れかけたコンクリート造の集合住宅の前に、車は停められていた。ジェイは直感する。この家は売春宿で、男の目的はアイだ。
ドライバーは運転席を降りて、アイが乗る左後部座席のドアを素早く開けた。
瞬間、ジェイはアイの腕を引き、自分が座っていた位置と入れ替えるようにして前に躍り出た。
勢いそのまま、膝の上に置いていた旅行鞄に手を突っ込み、軍用の懐中時計に結びつけている紐――パラコードに指を引っ掛けて、引き抜いた。
鞄から引っ張り出した軍用の懐中電灯をキャッチすると、ジェイはそれを警棒のように振りおろした。
航空機用アルミ合金製の懐中電灯は、アイに手を伸ばそうとしたドライバーの右手首を殴打した。ドライバーは鈍いうめき声をあげ、手を引っこめる。
ジェイはすかさず車外に飛び出すと同時に、前蹴りを放った。
ドライバーは後方に飛ばされる。間合いを詰めて、ジェイはドライバーの側頭部をめがけて、懐中電灯を鋭く振りぬいた。鈍い音が響き、ドライバーはその場に崩れ落ちた。
ジェイは踵を返して車に戻り、アイを車外に降ろした。
「さあ、行こう。盛り場はすぐそこだよな」
アイは肩をすくめた。「結果オーライだけどさ、相手は選んでね。このあたりには、手を出しちゃいけない相手もたくさんいるんだから」
※ ※ ※
ジェイとアイは、盛り場の手前の食堂に入った。
「これからのことを打ち合わせましょう」アイはポトフをすくいながら言った。
ジェイは頷き、ビールが注がれたグラスを持ちあげた。グラスが食堂の仄暗い照明に照らされて、鈍く光る。
「ターコイズブルーのドレスを着た人が働いているお店はここ」アイはスマートデバイスをジェイに見せながら言った。「ティーさんって人。店の場所はジェイに送っておくね」
ジェイは店の場所を確認しながら頷いた。「この後すぐに店に行く。アイはどうする?」
「わたしは、働いていた店のオーナーに会いに行こうと思う」アイはビールを一口飲んで、ため息をついた。「気が進まないけど、いわゆる情報屋みたいな人とつながりがあると思うから。かまいたちのヒントが得られるかも」
「無理しなくてもいい」ジェイは首を横に振る。「アイがそこまでする必要はないんだ」
重ねるようにアイも首を横に振る。「いいの、わたしがしたいの。ケーの無念を晴らしてあげたいし、それに――」
アイは宙の一点を見て静止した。ジェイは話の続きを待った。
「これといって、やることもないしね」アイは薄く笑う。「だから、あなたのためになにかするのも、なかなか悪くない」
※ ※ ※
二人は食堂を出ると、盛り場の手前でコインロッカーを見つけて、中に旅行鞄を放りこんだ。
アイは革製の小さな黒いショルダーバッグを取り出して、身体に斜めにかけた。
ジェイは手ぶらで、色がフェードしたファティーグパンツのヒップポケットに、革製のマネークリップと、軍用の懐中電灯を押しこみ、フラップのボタンをとめた。スマートデバイスはフロントポケットに突っこんだ。
「気をつけて」ジェイは言った。「なにかあったら、すぐに連絡してくれ」
アイは微笑んだ。「手がかりが見つかるといいね」
※ ※ ※
その店は盛り場に入ってすぐ手前にあった。ジェイは店の前に立ち、外から店――キャバレーを眺めた。
木製の重たい両開きの扉をジェイは開いた。扉は閉まるときに、鈍い音を響かせた。
すぐにボーイがやってきた。「いらっしゃいませ」
「ティーさんはいますか?」ジェイはできるだけ丁寧に尋ねた。
「はい、おります。ティーさんと遊ばれたことはありますか?」
「ありません」こういった店にはいかにも慣れていない、といった風にジェイは言った。
ボックス席に通されると、ジェイは店内を見渡した。中は外から見るよりも広く、天井が高かった。
迷路のようにボックス席が敷き詰められていて、店の中央には円形のダンスフロアとミラーボールがあり、店は賑やかだった。
ティーはすぐにやってきた。目が痛くなるほど、鮮やかなターコイズブルーのドレスを着ていた。
「こんばんは」目を細めるように、ティーは微笑んだ。「はじめまして」
「はじめまして」ジェイも親しみをこめて微笑んだ。
くるくる回る花びらのように、ドレスの裾を打ち振るい、ティーはするりとジェイの隣に座った。
赤茶けた店の壁と、ターコイズブルーのドレスのコントラストに、ジェイはめまいを覚えそうになった。
濃く、したたかな女の匂いが香った。
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