第5節 スーパーマーケット

 翌朝、ジェイは六時に目を覚ました。


 身を起こし、オーク材のベッドボードに手を置き、寝室の出窓のカーテンをめくり、外の風景を見た。ベッドの硬いスプリングが軋んだ音を鳴らす。


 窓の外はいつもと変わらず、雲におおわれた空が広がり、エフの街並みは灰色だった。音もなく雪が降っていた。


 ジェイはダイニングルームに行った。アイがマグカップでコーヒーを飲んでいた。


「早いな」ジェイは椅子を引きながら言った。


さかり場から帰ってきたら、すっかり早起きになっちゃった」アイはマグカップを置いた。「まるで模範囚みたいな生活」


 アイは化粧をすませ、髪を整え、キルトニットのスリープウェアから、鮮やかなオレンジのシェットランドセーターに着替えていた。


「顔、洗ってきたら?」アイは抑揚のない声で言った。「寝ぐせもすごいよ」


    ※  ※  ※


 ジェイは顔を洗い、金色の柔らかい髪を整え、歯を磨いてダイニングルームに戻った。テーブルの上にジェイの分のコーヒーが置かれていた。


 礼を言い、マグカップを持ちあげたジェイに、アイはスマートデバイスを差し出した。「ここ五年間で、かまいたちが起こった場所を調べてみたの」


 ジェイはスマートデバイスの画面を覗きこんだ。スーパーマーケット、林檎畑、変電所、鉄塔、それから工場――、ジェイは動きを止めた。


「工場も?」


「そうみたい」アイはスマートデバイスを操作して、再び画面をジェイに見せる。「タイヤ工場だって」


 ジェイは顎に手の甲をあて、低い声で言った。「昨日、タイヤ工場にケーが殺された日の話を訊きに行ったんだ。そんな話はまったく出なかった」


「わざわざ言うことでもなくない?」アイは首をひねる。


「十人以上に話を訊いたんだぜ? ケーは、かまいたちに殺されたって、はっきりと説明して。一人くらい、なにかしらの言及や反応があってもいいような気がするけどな」ジェイは眉間に皺を寄せた。「なんか妙なんだよな、あの工場」


「違和感のない職場が、いったいどこにあるっていうのよ」


 たしかにそうかもしれないと、ジェイは思った。


    ※  ※  ※


 二人はジェイの車に乗りこみ、開店時間にあわせてスーパーマーケットにむかった。車はオートパイロットで快適に進んだ。


「車、買い替えたの?」アイは車の外の景色をぼんやりと眺めながら言った。


「これは代車だよ。エンジンがかからなくなって、修理に出したんだ」


「買い替える気はないの? 博物館の展示品みたいな、あのガソリン車」


「今のところはね」


「どうして?」


「どうしてだろう」こめかみを抑えてジェイは言う。「いろいろと、思い出があるからかもしれない」


 ジェイは助手席のシートに染みこんだケーの血を思い出す。両手を強く握りしめ、少しだけ気が遠くなるのを感じた。


    ※  ※  ※


 ジェイとアイを乗せた電気自動車は、スーパーマーケットの側面のスロープに吸いこまれるようにして屋上にのぼり、駐車場で静かに停車した。車は数台しかなかった。


 屋上のふちまでゆっくりと歩き、雪が舞うエフの街並みをフェンス越しに見おろした。


 ひび割れたアスファルトの道路、崩れて分断されたハイウェイ、鉛のような川。


 風景をひとなめしてから、二人はスーパーマーケットの入り口に歩いた。


 スーパーマーケットの階段は薄暗く、犬小屋のような臭いがした。


 階段を一段下りるたびに、アスファルトの地面でゴムボールをついたような、現実感のない足音が、ポリ塩化ビニルの床から響いた。


「二階のトイレよ。かまいたちがあったのは」アイは注意深く階段を下りながら言った。


 二階のフロアは、がらんどうだった。建物を支える無機質な柱がいくつかあるだけで、壁際には撤退したテナントの細々とした荷物が残されていた。


 あとはかろうじて、文房具屋がぽつねんと営業しているだけだ。


 天井の照明――角形のLEDライトは、その寿命のほとんどを使い果たして薄暗くなっているものや、完全に事切れて回路がショートしたものが点々としている。


 生存している照明は、浮浪者の歯のようにまばらだった。


 薄暗い灯りと、外から射しこむ微弱な陽の光が混ざりあい、銅に生じた青錆あおさびのよう空気がフロアを満たしている。


 BGMはなく――そんなものはエフに存在しない――、また、人の気配もほとんどない。


「わたしが小さいときには、もう少し活気があったのよ。そこの角が、ゲームセンターだったの」かつて、アーケードゲームの筐体きょうたいが並べられ、賑やかな音と光で満ちていた一角を、アイは示した。「ずいぶんと昔のことみたい」


 二人はフロアを斜めに横切るようにして、一直線にトイレに歩いた。


「殺されたのは五歳の男の子だったから、男子トイレだよな?」ジェイは訊いた。


「そうよ」アイは頷く。「母親は子どもを一人でトイレに行かせて、文房具屋を物色してた。いつまで経っても男の子が戻ってこないから、様子を見に行ったら刺し殺されてたってわけ」


 男子トイレの照明はそのほとんどが切れていて、暗がりになっていた。 


「とんでもなく暗いな」ジェイはそこまで言って動きを止めて、振り返った。「ごく自然に男子トイレに入ってきたな、アイ」


「こんなトイレに人がいるわけないでしょ」


「それもそうだ」ジェイはトイレを見渡す。「去年、ここで人が殺されているわけだしな」


 トイレの床は砂っぽく、溝川どぶがわのような臭いがした。


 ジェイとアイは、狭いトイレの中をくまなく歩きまわり、その隅から隅まで目を凝らした。特筆すべき点はとくになかった。


 男子トイレを出ると、二人は文房具屋にむかった。品揃えはひどいものだったが、今日日きょうび、潤沢な在庫を抱える店なんてエフにありはしない。


 レジで口を半開きにして、宙の一点を見つめる若い女の店員にジェイは声をかけた。ややあって、緩慢な動作で女はジェイを見た。


「なんでしょう?」


「去年あった、かまいたちについてお聞きしたいのですが」


「なんでしょう?」女はうつろな目で繰り返す。


「犯人の映像って、映ってなかったんですか?」ジェイは店の隅に取り付けられた監視カメラを指差す。


「映ってましたよ」


「なにが映ってたんですか?」


「男性です」女は焦点の定まらない目で言う。「チェスターコートを羽織って、背広を着た、ごくごく普通の中年らしき男性が」


「その映像から、容疑者は浮かび上がらなかったんですか?」


「どうでしょう」女は首をひねる。「わかりません」


 アイが尋ねる。「殺された子のお母さんがここにきたと思うんですけど、なにを見てたかわかりますか?」


「レターセットを見てたらしいですよ」女は斜め上を見上げながら言った。「まあ、直接見たわけじゃないんですけど。そのとき、わたしもいたはずなんですが」


「なんでレターセットを見てたんですかね?」アイは訊いた。


「出稼ぎに行った旦那さんに手紙を書くために、みたいな感じだったと思います」女は言った。「噂で聞いた話ですけど」


「ちなみに、あなたはそのときここにいたんですよね? ここからは男子トイレの入り口も見えますけど、あなたはなにか見たり、音を聞いたりしなかったんですか?」


「それがまったく。あたし、ぼんやりしてるもんでして」


 女は穴が開いたような暗い目でそこまで言うと、動かなくなった。バッテリーが切れた、人型ロボットのように。

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