第4節 懐かしい家

 煉瓦れんが造りの家に入ると、食欲をそそる匂いがジェイの鼻をくすぐった。


「いい匂い」ダイニングに続く戸を押し開けながら、ジェイは言った。「なんの匂いだろう?」


「ボルシチよ」アイはメルトンのピーコートを脱ぎ、ハンガーラックにかけながら言う。「あと、チキンカツレツと、じゃがいもきのこサラダと、デザートにフルーツケーキもあるの」


「ずいぶんと豪勢だな」アイのピーコートの隣にダッフルコートを吊るして、ジェイは言う。


「約束してたんだ」アイは両手を握りしめる。「クリスマスには、とびっきりのごちそうを食べようって。妹と」


 ジェイは目を細め、ゆっくりと頷く。「酒はなにがあるんだ?」


「ビール、赤ワイン」アイは指を折りながら言った。「おまけにウォッカもあるよ」


「たまらないな」


    ※  ※  ※


 もみの木を植木鉢にうつして、部屋の片隅に置き、二人はクリスマス・オーナメントの飾り付けに取りかかった。もみの木はちょうど、アイの背丈くらいだった。


 手始めにまず、赤、青、黄色、緑、ピンク、シャンパンゴールドと、色とりどりの電飾をもみの木に巻き付けた。


 次に鈴とプレゼントボックスのチャームをつけ、オーナメント・ボールを吊るした。


 それから最後の仕上げに、トップ・スターをそっとアイが取り付けた。


 クリスマスツリーができあがると、使いこまれたオーク材のテーブルの上に、食事が盛り付けられた皿を、アイは目一杯に並べた。


 温め直したボルシチとチキンカツレツから湯気が立ち昇り、窓硝子まどがらすは汗をかいた。


 ジェイは食器棚からグラスを二つ取り出して、そこに注意深くビールをそそいだ。暖色のフロアライトに照らされて、グラスに満たされた淡い狐色のビールが柔らかく煌めいた。


 二人はほとんど無言で食事の準備を行った。あらかじめ決められた、儀式をり行うように。


 グラスを静かに持ちあげると、アイは言った。「ケーに」


「妹さんに」


 二つのグラスの口が交差するようにそっと触れた。二人はグラス半分ほどのビールを一息で飲んでから、フォークを手に取った。


 じゃがいもきのこサラダを口に運び、ボルシチで身体の芯から温まり、チキンカツレツにナイフを入れ、中から溢れ出したバターをいつくしむように塗ってジェイは食べた。


 こんなに身体にみ入る料理を食べるのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。


 父親が家を出る前に、食堂で食べたあの魚のスープ――川鱒かわます、じゃがいも、玉ねぎを煮こんだ、素朴なスープ――あのとき以来かもしれないと、ジェイは思った。少しだけ父親のことを思い出した。


「いま、なにを考えているの?」アイはジェイの瞳を覗きこむように尋ねた。


「家を出た父親のことを思い出していた」ジェイはサワークリームをボルシチに溶かしながら言った。「それと、ケーとの思い出を」


「ねえ」アイは右手のナイフを置き、フォークに持ち替えた。「覚えてる? 十五歳くらいのときに、三人でスキーに行ったのを」


「覚えてるよ。あの日の雪は穏やかだった」


「ケーが斜面を真っすぐに猛スピードで滑って、縦に何回転かしながら、激しく転んだのも覚えている?」


「もちろん。足首が折れたかもしれないって、大泣きしてたな」ジェイは微笑む。「そこでスキーを切りあげて、まだ十歳にもなってないケーを背負って、診療所に連れて行った」


「ヴォドが『おおげさな』って呆れてたね。結局ただの軽い捻挫で」アイは目を細めて笑い、たおやかな髪の毛先が揺れた。


「ずいぶん前の出来事なのに、昨日のことのように思える」ジェイはこめかみに指をあてて言った。「でも、この家は懐かしく思えるよ」


 そのとき、ストーブの上に置いた薬缶やかんが音をたてて、蒸気を吐き出した。


 アイは木製の古い椅子から立ちあがり、ストーブに近寄った。薬缶を持ち上げて、残っているお湯の量をその重さでたしかめる。満足そうに頷くと薬缶を戻して、再びテーブルに戻ってきた。


「もう、さかり場からこの家に戻ったのか?」ジェイはアイに尋ねる。


「うん。妹が死んじゃったしね」アイはビールが入ったグラスで唇を湿らせてから言った。「盛り場で頑張る理由もなくなっちゃった」


「そうか」ジェイはアイのグラスにビールをつぎぎ足してから、自分のグラスにも注いだ。「いつこっちに戻ったんだ?」


「つい先月」


「仕事はどうしてる?」ジェイはビールを一口飲んで言った。「質問ばっかだな」


「気になったら、とことんね、ジェイは」アイは苦笑する。「アイウェアのモデルをやってる」


「アイウェアのモデル?」


「そう」アイは得意げに笑う。「意外と眼鏡が似合うのよ。私」


「それは知らなかったな」


    ※  ※  ※


 食事を終えてから、二人は赤ワインを飲んだ。ボトルがすっかり空になると、熱く濃いコーヒーをれて、フルーツケーキを食べた。


 コーヒーを飲んで一息入れてから、ウォッカを飲んだ。二人はとりとめもなく、ぽつりぽつりと話した。


 ウォッカのボトルも空になると二人で食器を洗い、シャワーを浴びて、歯を磨き、ベッドに入った。


    ※  ※  ※


 ジェイが眠りに落ちようとしたとき――午前三時過ぎに、アイは落ち着いた声で、静かに言った。


「明日起きたら、一緒にスーパーマーケットに行ってみない?」


 ジェイは目をこすりながら言う。「スーパーマーケットに?」


「そう。食材を買って、ブランチをつくってあげる」


「それは楽しみだ」


「あと、かまいたちが起こった場所に行った方がいいと思う」


 ジェイは薄目でアイの横顔を見る。アイは仰向あおむけで目を閉じていて、喋るその姿は天啓てんけいを告げる預言者のように見えた。


「あなたはきっと、そうすべきだと思う」

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