第2節 もみの木の森①
快活な青年は手際よくボンネットを開くと、ジェイの車が動かなくなった原因の特定に取りかかった。
自動車修理工場の中には、何人かの作業員がいた。
その誰もが節くれだった手をしていて、各々のペースで黙々と電気自動車の整備をしたり、タイヤを取り替えたりしている。時折、トタンの壁が風で震えた。
「いったいなんだって、こんな古い車に乗ってるんです?」青年は訊いた。「ガソリン車をいじるのは、初めてですよ」
「曽祖父が偶然、手に入れた車なんだ。もうかれこれ、六十万キロ以上も走っている」
「六十万キロ?」青年は目を見開く。「よく壊れませんね」
「ニホンの車は壊れないことで有名だったそうだ。ほとんどメンテナンスをしなくても」ジェイはパイプ椅子に座りながら言った。「しかし、さすがにもう変えどきだな。修理できる工場も、交換用の部品も、どうやらほとんど残ってないらしい」
青年は腰から垂らしたタオルで、オイルで黒く汚れた手の甲を
「トランスミッションには問題がないし、冷却水漏れも、オイル漏れもありません。でもおっしゃる通り、ガソリン車に乗り続けるのはもう難しいでしょうね。ガソリンの供給だって、いつまで続くか、わかりませんし」
ジェイは頷く。鉄を打ちつけるような鈍い音が、工場に響きわたる。
「ところで、なんで工場に寄ったんです? 仕事には見えませんが」
「亡くなった弟のことできたんだ。弟がその日、どんな様子だったのかを訊きに」
「もしかして、ケーのお兄さんですか?」青年は動きを止めて、ジェイにむかって静かに歩いた。「ケーのことは、言葉もありません」
青年はジェイが座るパイプ椅子の横に腰をおろした。尻を床につけると、両脚を折り曲げ、それを両手で抱えこんで座った。
「ケーの知り合い?」ジェイは青年の顔を覗きこむようにして訊いた。
「ええ、学生時代からの付き合いです。就職してからもずっと工場が隣り同士だったので、お互いによく行き来していました」
ジェイは目を細める。「さっきケーの工場で交友関係について訊いたが、そんな話題は出なかったな」
「工場で働く人たちは、お互いに無関心なんです」青年はタオルで額を擦りながら言う。「職場の人がなにをしているか、あるいはどんな人かなんて、まるで関心がない。なんなら、工場全体がなにをつくっているのか、いったいなにをしている会社なのかすら、誰も知らない」
「そんなことがあり得るか?」ジェイは独り言のようにつぶやき、顎をさする。
「ここはそういう場所なんです。個人個人が、上から下りてくる指示に従って動くだけ。お互いのことを深く知ることはない。なぜならば、知る必要がないからです」青年はジェイの顔を見て言った。「あの日、ケーは午後から、もみの木の森に行くと言っていました」
「もみの木の森に?」ジェイは首をひねる。「なんのために?」
「そこまでは聞いてません」青年は立ち上がり、動かなくなった車に再び近寄る。「ただ、どこか楽しそうに言ってましたよ」
※ ※ ※
ひとしきり車を点検してから、青年は言った。「オルタネーターの故障ですね。交換が必要ですが、部品が取り寄せられるかはわかりません。首尾よくいった場合の見積もりは、こんな感じです」
提示された見積もりを確認して、ジェイは車の修理をお願いすることにした。
「代車が必要でしょう。よかったらこれを使ってください」青年は電気自動車のリモコンキーをジェイに差し出した。「交換用の部品があるか、わかり次第連絡しますね」
「なにからなにまで、ありがとう」ジェイは頭を下げた。
「最後に一点だけいいですか?」青年は訊いた。
ジェイは頷く。
「助手席のシートは交換しないんですか? その……血の跡がべっとりとついていますが」
ジェイの瞳が静かに燃える。青年はそれに気がつかない。
「いいんだ、そのままで」ジェイは目をつぶり、頷く。「ケーの死を忘れないためにも」
※ ※ ※
電気自動車は静かだった。ほとんど駆動音もなく、滑るように工場の敷地を走った。ジェイは門にむかって車を走らせた。
「ずいぶんと遅かったな」小太りの
「車が壊れて、修理をお願いする羽目になったんだ」
門衛はあくびを一つしてから、小屋の中の操作盤を操作した。
錆びた堅牢な門がうなりをあげて、ゆっくりと動きだした。
ジェイはその間に、電気自動車のナビゲーション端末を操作した。もみの木の森が位置する座標をプロットし、門が開け放たれるのを、じっと待った。
地鳴りのような音が続いてから、最後に鉄の塊を打ちつける、鈍い音があたりに響き渡った。
それと同時に、ジェイは車のアクセルを踏みこむ。電気自動車は音もなく滑り出し、南西に広がる、もみの木の森にオートパイロットでむかった。
※ ※ ※
もみの木の森の浅い地点で、車は音もなく停まった。
ジェイは運転席から降りて、まわりを見渡した。もみの木の森には静寂が降りていて、
ジェイは疑問に思う。ケーはなぜ、午後に仕事を休んでまで、もみの木の森なんかに足を伸ばしたのだろう? 本当にこんなところを訪れたのだそうか?
そのとき、ジェイの背後で小枝を踏み鳴らす音が響き、静寂が破られた。ジェイは振り返る。そこには、一人の女が立っていた。
女は濃紺の分厚いピーコートを着て、タイトなブラック・デニムを
女の両手には、華奢な身体には
「アイ?」ジェイは眉をあげて声をかける。「久しぶりだな。どうしたんだ、こんなところで」
「久しぶりね。まさか、こんなところで会うなんて」アイは微笑む。「もみの木を
握りしめたチェーンソーを、雪が積もった地面にアイは置いた。それから、勢いよくチェーンソーのスターターロープを引っ張った。トルクを感じさせる威圧的な音が響き、チェーンソーが震える。
アイはチェーンソーを両腕で持ち上げ、その先端をジェイにむけて、白い歯を見せて笑った。ジェイはその身を硬くして、身構えた。
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