第2章 西へ東へ
第1節 工場①
受付の小さな窓から、ジェイは
「ごめんください」
小太りの門衛はぴくりとも動かない。
「ごめんください」
やはり反応がない。
ジェイは受付の窓を強く叩いて繰り返す。「ごめんください」
しばらく窓を叩き続けると、門衛はようやく目を覚ました。あくびをしてから立ち上がり、ゆっくりと歩いて窓口にやってきた。
「なんだい?」門衛は目を
「昨日亡くなった従業員の、ケーの兄です」
門衛は舐めまわすようにジェイの顔を見る。「それでいったい、なんの用だい?」
「弟のケーが昨日どんな様子だったか、聞かせていただきたい。上司の方に取り次いでいただけませんか?」
「確認してみないことには、わからないね」門衛は意地が悪いカラスのように言った。「弟さんが働いてた部署は?」
「タイヤの製造ライン」
門衛はいかにも面倒臭そうに目を細めて、タイヤ工場に内線電話をかけた。
ジェイはその場に立ち尽くした。風が吹き、金色の柔らかい髪が揺れた。
しばらく待つと、門衛が窓口に戻ってきて言った。「車ごと入りな」
ジェイは頭を下げてから尋ねた。「タイヤの製造ラインはどっち?」
「門を入って、ずっと右の突きあたり」
ジェイは車に戻り、イグニッションキーを回した。エンジン音が鳴った直後、地鳴りのような音があたりに響き渡り、錆びついた巨大な門が開かれた。
※ ※ ※
工場の受付は薄暗くて、カビ臭かった。
「さきほど取り次いでいただいた者ですが」誰もいない受付にむかってジェイは言った。「亡くなった、弟の件で伺いました」
ややあって、奥から人の良さそうな中年が出てきた。「どうしましたか?」
「門衛の方に取り次いでいただきました。亡くなった弟、ケーのことを伺いのですが」
中年は宙をぼんやりと見つめて言った。「はて……? そのようなことは聞いておりませんが」
「いまさっき取り次いでもらったんだが」
「わかる者がいないか、確認しますね」
中年は再び奥の部屋に引き返した。ジェイはその場に立ち尽くし、あたりを見回した。
ぼやけたリノリウムの床に、
奥にデスクワークを行う執務室らしきものが見えるが、曇り
これといって見るものがなくなった頃に、人の良さそうな中年が戻ってきた。
「お待たせしてすみません。やはりわかる者がいないみたいでして」中年は申し訳なさそうに言った。「門衛との連携ができていなくて、申し訳ない限りです」
ジェイは平板な声で言った。「ケーの昨日の様子について尋ねたいのですが、わかる方はいませんか?」
「それなら、私がよく知ってますよ」中年はわざとらしく微笑んだ。「私はケー君の班長でしたから」
※ ※ ※
受付の奥にある、パーテーションで区切られた簡易的な応接スペースで、ジェイは班長とむき合った。
班長はコーヒーを一口飲んで言った。「昨日、ケー君は午後休でした」
「それは前から決まっていたことですか?」
「はい。今月に入ってすぐ、申請を受けていました」
「その日の午後、どこかへ行くとか、用事があるとか、なにか言っていませんでしたか?」
班長はコーヒーカップの取っ手を指で掴み、左右に揺らしながら考えこんだ。陶器が
「とくになにも言っていなかったと思います」班長はコーヒーカップを持ち上げた。「なにせ、プライベートなことはまったくと言っていいほど、話題に上がらない職場ですから。たとえクリスマス・イヴだろうと」
ジェイは班長の顔を見た。白髪が混ざった縮れ毛、不揃いに伸びたグレーの眉毛。目尻には人がよさそうな皺が刻まれ、その物腰は
ケーは殺されたのだということを、ジェイは班長に伝えた。おそらく、かまいたちに。
班長はさも真剣に話を聞いているといった感じに、要所要所でおおげさに頷いていみせた。しかしその目の光は、実際のところ、話にたいして関心がないようにジェイには思えた。
班長は言った。「かまいたちですか。そればっかりは、仕方ありませんね」
「他の方にも話を伺っていいですか?」ジェイは尋ねた。「仕事の邪魔にならない範囲で構わないので」
「いいですよ」班長は顔の表面だけで笑う。「さすがに今、製造ラインに入っている従業員を呼びつけることはできませんが、事務作業をしていたり、休憩中の者であればいいでしょう。なにせ、忙しいことなんてないんですから。工場は」
※ ※ ※
ジェイは執務スペースに入った。何人かの従業員に話しかけ、かまいたちにケーが殺されたことを説明して、話を聞いた。
その場にいた従業員は、年齢も性別もまちまちだったが、その誰もがぼんやりとした、暗い目をしていた。
従業員たちは、ケーが殺された日の午後になにをする予定だったのか、誰も知らなかった。
それだけでなく、ジェイと親しい職場の人物も、まったく思い浮かばないということだった。近頃のジェイの様子にもなんら変化はなく、勤務態度はいたって真面目そのものだったと誰もが言った。
「仕事中にありがとうございました」ジェイは班長に頭を下げた。
「お力になれず恐縮です」班長は申し訳なさそうに肩をすぼめた。「もしも気になることがでてきたら、またきてください。あなたのお役に立てるとは思えませんが」
※ ※ ※
ジェイはタイヤ工場の入り口を出て、車の運転席に乗り込み、イグニッションキーを回した。いつも通り悲鳴のような音が響いたが、エンジンがかからなかった。
ジェイは何度もイグニッションキーを回した。次第に、肺炎の老人が咳きこんだときのような、不吉な音が響くようになった。
そのとき、運転席の窓を叩く音が鳴った。油で汚れた紺色の帽子を後ろむきに被った、快活そうな青年がそこに立っていた。
運転席を降りたジェイに、帽子の青年は言った。「エンジンがかからないんですか?」
ジェイは頷く。「だいぶ古い車だから」
「古いなんてもんじゃないですね、これは」車の顔から尻まで舐めまわすように眺めた青年は、驚いたように目を見開いた。「ガソリン車な上に、聞いたこともない車種ですね。プロボックス……? って車種なんですかね」
「そう。かつて、ニホンと呼ばれていた国の、トヨタというメーカーの古い車」
「ニホン……? うーん、聞いたことがないな。まあいいや、よかったら、中身を見てみましょうか? 僕、自動車整備工場勤務なんですよ」青年は笑った。「まあ、骨董品のような車なので、どれくらい力になれるかわかりませんが」
動かなくなった車を青年の作業車でレッカーして、自動車整備工場に運んだ。青年の車は静かで、ほとんど音もなく工場の敷地を進んだ。
ほどなくして、のこぎり屋根の工場に二人は到着した。
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