ブレイン

 わたしはひとりで歩くしかなかった……けれど今といえば隣にブレインがいるし、裏社会の道を除けば妹がついている。生まれる時代も生まれる場所もわたしには選択する権利がなかったけれど、今のわたしが存在しているのは何かを選択したからだろう。


 生きるか死ぬかの選択なら、わたしはしぶとく生きてやろう。


「あ――そうだ、口説くつもりはないけど」


 と、わたしは雨音に包まれる夜の街で足を止めた。


「ここまで来たのだし食事でもして帰る? 断っても構わないわよ」


「それはナイスアイディアです。行きましょう」


 じゃあ――と、わたしはお店を指さす。ここら辺のお店は行ったことがないので楽しみなのだ。そういうわけでブレインにお店を選択する権利は与えない、加えて、わたしのような美しい乙女との食事なんて光栄でしょうからブレインに奢ってもらおう。そういった考えで誘ったわけではない……とは言いきれない。一つ事実を言うと、わたしは楽しみなのだ。


 どうして楽しみなのか? なんて訊かないでほしい。


 近くのショップからは《ヴィヴァルディの春》が流れていた。その音色はわたしのこころを踊らせる。ああ、どんな感情を溢れさせればいいか分からないがこれだけは分かる……わたしは今が楽しいのだ。わたしは嬉しかったし楽しかった。


「イェーガー」


 ブレインに呼ばれたのでわたしは振り返る。無邪気な少女みたいに。


「なに?」


「あなたとの食事は嬉しいし楽しみです……しかし残念ながら、ここでお別れのようだ」


 わたしは嬉しかった。わたしは楽しかった――だけどブレインが指し示す公共スクリーンを見て、雨音しか聞こえなくなってしまった。


<image & text> evil hunting:target.

          code name……『brainブレイン』</ image & text>








 この日、裏の政府シークレット・ガバメントはブレインを標的にした。


 雨音に包まれていても《歓喜の歌》は力強く響いている。《ベートーヴェンの交響曲第九番・第四楽章》。気がつけば音楽は次へと進んでいた。今のわたしの感情は歓喜とは全く違うのに……『心地よいものを歌おう』とわたしを歓喜の輪に誘ってくる。


(どうして……)


 わたしは銃を構えることも、ましてホルスターから引き抜こうともしない。この現実を信じたくなかった、ブレインを疑いたくもなかった。


 イヴィル・ハンティングの獲物にされているのに、なぜブレインは微笑むのだろう。


「どうしてあなたが削除対象に……どういうこと?」


「確実に言えることは、<表と裏>、つまり『このセカイはブレインを排除したい』ということ」


「それだけの罪をあなたが背負っていると言うの……」


「背負っていないって言うと嘘になるけど、この状況に罪は関係ないはずです」


「――ならどうしてあなたが削除対象なのよ! 裏の政府から狙われるなんて変でしょ」


 信用できるのは自分自身だけなのだろうか。裏社会には多くの組織がある、その中でイヴィル・ハンティングを仕切る裏の政府は秘密権力よりも強大な力を持っている、実際ネクロスも勝てないと言っていた。そんな組織から狙われるブレインを信用できるのか。


 このままでは何も信用できなくなりそうだ――だからブレイン、わたしに教えて。


「これが【マリス】の共同体意識。それと、自由劇で憎まれてしまったぼくの運命です」


「そんな答えじゃ納得できない! あなたは何か知っているんでしょ? ねぇ……教えてくれてもいいじゃない」


 わたしはブレインの腕を掴んだ。


 答えてくれるまでは絶対に放してやらない。ブレインがターゲットに指定されている今、彼はどこかに隠れてステルスバードの偵察をやり過ごさなければならない。わたしがこの場所で足止めしていたらブレインは隠れることも逃げることもできないのだから困るはず。


 彼が何を隠しているのかわたしは知りたかった。


<project>「異端者はマリスのセカイを救いたい――けれどそれは不変の文法を適用することであり、絶対的な不幸の訪れを意味している」</project>


 わたしの瞳でもとらえることのできない未来の計画。


「これはあなたの試練です。《神曲》とは違って案内人は存在しない。だから、この先のあなたはひとりで進むしかない」


 あなたの試練に比べればわたしの試練なんて簡単なものでしょ……あなたがそこまでして守りたい世界って、わたしの想像を超える広さがあってひとつひとつが尊い世界なの? わたしはこの小さいセカイで限界を迎えているのに、あなたはどうして立ち止まらないの。


「ここまでの道はあなたが案内してくれたの……」わたしは訊いた。


「うーん、どうだろうね。ここで正確に言えるのは――辿り着いた頂に孤独はないということ」


「……分からないよ。そんなこと言われても、わたしの目でも見えないよ」


「急ぐ必要はありません。安心して歩いてください」


 わたしは分からなかった。わたしは哀しかった。わたしはそれ以上ブレインを引き止めようとしなかった。(わたしはあなたのために生きている)





<floral bookmark><約束>「未来で待っていて…………」

            「…………待っています」</約束></floral bookmark>

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