第9話 Sideハク フライフェイス


「出てきなよ。いるのはわかってるから」


 伊波の家を出てすぐのこと。

 ハクは彼のアパートの屋根を見上げて声をかけた。冷たく鋭い声音に、息をひそめていたそれはビクッと身体を震わせる。


「……気づイテいたのカ」


 くぐもった女の声と共に、それは地面に降り立った。


 デニムのパンツに黒のパーカー。

 何の変哲もない格好の中で歪な雰囲気を漂わす、ひょっとこのお面。


 ハクはやれやれと肩をすくめ、「まぁね」と呟く。

 目で見えなくても、耳で聞こえなくても、殺気を感じ取り相手の位置を掴むことなど容易い。


「久しぶり、火傷面フライフェイス。どうしたの、そのお面。前に会った時は、ガスマスク着けてなかった?」

「空港で買っタ。イイ買い物をしタ。日本はセンスがイイ」


 フライフェイス――顔が火傷でぐちゃぐちゃになってしまったことから付いた、彼女の殺し屋としての通り名だ。

 基本的に何かで顔を隠して生活しており、人を精巧に模したマスクからこういったお面まで幅広く所有している。


「んで、ここに何しに来たの? 駅ならあっちだよ」


 フライフェイスの意図を理解した上で、ハクは駅の方向を指差しながらあえて尋ねた。


「ヘマをしタ。取り返シノつかない、デカいヘマだ」

「ふーん。私を殺して、名誉挽回したいの?」

「……そうダ」

「悪いけど、相手する気ないよ。お腹いっぱいでもう眠いし。そっちもこんなことしてないで、温泉にでも浸かってゆっくり休んで、また次の仕事で頑張ればいいじゃん」


 ふるふると、フライフェイスは小さく首を横に振った。


 懐から取り出した、サイレンサー付きのピストル。

 その銃口を、すっと伊波の部屋の窓へ向ける。


「アノ男を殺したら、やる気になるか?」


 その時、勢いよく冷たい夜風が吹いた。


 風に巻かれて揺れる銀の髪。

 フライフェイスを見つめたまま微動だにしない、銀の瞳。


 心臓が激しく脈打ち、全身に力が入り、身体中の筋肉が軋む。

 自分の命が狙われたことではなく、他人の命が脅かされたことに対してここまで怒りが湧いたのは初めてだった。


「……伊波に手を出したら、ただ殺すだけじゃ済まさないから」


 凍えるような眼光に、フライフェイスは息を呑む。


 殺し屋業界で彼女を知らない者は、モグリか余程の田舎者だ。

 フライフェイスはそのどちらでもない。彼女がこれまでどのような仕事をしてきたのか知っているし、彼女に挑んだ者の末路も知っている。


 全てを理解した上で銃口を向け、躊躇わずトリガーを引いた。


 一発目は躱され、二発目も躱す。

 いつの間にか握っていたナイフ。それで三発目、四発目を弾き、逸れた弾丸が外灯を割る。


「くそ……っ」


 悪態をつくフライフェイス。

 狙いは完璧なのに当たらない。人間を相手にしている気がせず、やめておけばよかったと後悔する。


 だが、始めたのは自分だ。

 もう立ち止まれない。


 五発目も躱され、六発目はナイフでいなされた。

 眉間に向かって一直線に飛ぶ七発目は、切断され真っ二つに。


 それに驚いた一瞬の隙を突き、ハクは思い切り地を蹴ってフライフェイスの懐に飛び込んだ。


「――――っ!!」


 首筋に触れる刃の感触。冷たさ。

 ハクが少しでもナイフを動かせば、大量出血は免れない。


「……相変わらず強いナ」

「褒められたって嬉しくないけど、ありがとうって言っておくよ」


 そう言って、ナイフの柄を強く握った。

 これで終わりか――と、フライフェイスは目を瞑る。


 その時だった。


「あ、いたいた。おーい、ハクさーん!」

「っ!?」


 伊波の声がすると、ハクは途端に鉄のような無表情を崩してナイフをしまい、フライフェイスから銃を取り上げて近くのゴミ集積所へ投げ捨てた。彼には殺し屋だとバレているため隠す必要などないのだが、今から殺そうとしていた人間と会わせるのは何となくバツが悪い。


「ど、どうしたの? 私に何か用事?」

「はい。お土産があったんですけど、渡すの忘れちゃいまして」


 そう言って渡されたのは、小さな紙袋。

 中を覗くと、タッパーの中に沢山の茶色い何かが入っている。


「今日食パンを買った時、一緒にパンの耳を貰ったので全部ラスクにしました」

「ラスク!? ラスクはわかるよ! カリカリで甘くて美味しいやつ!」

「そうです。俺一人じゃ食べ切れないので、おやつにでも食べてください」

「うん、ありがとう!」


 伊波はやわらかく微笑むと、何かに気づいたのかハクに手を伸ばした。


 突然の行動に、「えっ」と言葉に詰まり赤面するハク。

 長い指先で彼女の肩に触れ、服についていた小さなガラス片を摘まんで地面に捨てる。


「どこでこんなもの付けたんです? 危ないですよ、指とか切っちゃうかもですし」

「あ、うん、そうだね。……ありがとう、取ってくれて」


 外灯が割れた時に飛び散ったものだろう。


 それはさておき、触れられそうになってかなり焦ってしまった。

 自分から行くのは何とも思わないのに、向こうからだと妙に顔が熱くなる。その上、ただゴミを取ってくれたという気遣いが、わけが分からないほど嬉しい。


「じゃあ、俺はここで。気をつけて帰ってください。明日、楽しみにしています」


 「おやすみなさい」と離れてゆく彼に手を振って、姿が見えなくなったところでゴミ集積所へ目を向けた。


「……何で逃げなかったの?」


 そこには、ゴミの上で微動だにしないフライフェイスがいた。

 逃げる時間は十分あったのに、死んだように仰向けのまま動かない。


「もう勝負はついタ。早くコロせ」

「って言われても、伊波からもらったお土産持ったままそんなことするのもなー……」

「……じゃあ、ココで全部食うカ」

「何でそうなるのさ。……ははーん、なるほどぉ。あなたも伊波の料理が食べたいんでしょ?」


 違うと首を横に振って否定するフライフェイス。

 ハクはニヤニヤと笑って、タッパーを取り出し蓋を開いた。「一個どうぞ」と促され、フライフェイスは躊躇いながらも一つ取り仮面の隙間から口へ運ぶ。


「……美味いナ」

「んーっ、うまーい! こういうシンプルなのも、伊波が作るとこんなに美味しいんだね!」

「もう一個クレ」

「いいよ!」


 サクサク、ボリボリ。

 夜道のど真ん中で手作りラスクを貪る、殺し屋二人。


「取り返しのつかないヘマって、どんなことしたの?」


 何のなしに尋ねると、フライフェイスは口の中のラスクを飲み込みため息をついた。


「……赤ん坊を助ケタ」

「それがヘマ?」

「依頼はターゲットの一家を消スことだった。でも、赤ん坊ダケは殺せなくて……」

「……」

「ワタシの素顔を見テ、その子が……わ、笑ったんダ。グチャグチャなこの顔を……それが嬉しクテ、助けた。今は安全ナところに預ケテある」


 「そっか」と相槌を打って、ラスクをもう一つ渡す。

 彼女はそれを受け取り、静かに口へ運ぶ。


「依頼主はソレが気に入らないらしい。赤ん坊を寄越せと言わレタから、つい……」

「殺っちゃったの?」

「ああ」

「……取り返しのつかないヘマどころの話じゃないでしょ。ってか、そんなの私を殺したってどうにもならなくない?」


 依頼主に手を出す殺し屋など、狂犬も同然だ。

 その殺しに大義があるならともかく、今回の場合、倫理的には彼女が正しいが殺し屋的にはアウト。ハクを殺して腕を証明したところで、その過去は覆らない。


「これ以外に何モ思いつかなかっタ。どうすればいいかわからナイ」

「……じゃあ、とりあえず生きときなよ。死ぬなんていつでもできるんだし」

「いや、し、シかし……」

「私に負けといて、私の意見に口答えするわけ? 死んだらもう、こんな美味しいラスクも食べられなくなるんだよ。それってもったいなくない?」


 ラスクをもう一つ渡され、ハクと一緒に頬張った。


 噛むたび口の中に広がるバターの香り。

 普通の砂糖ではなくザラメが使用されており、こちらの食感も合わさっていい音が鳴る。

 美味しくて、心の底からホッとするその味に、フライフェイスは「もったいナイ、かもな」と呟く。


(……伊波はすごいなぁ。死んでもいいって思ってる人を、料理で助けちゃうんだから)


 彼が使う包丁も、自分が使うナイフも、人の命を奪うことができる点においては一緒だ。


 だが、彼の刃物は美味しいものを作り出す。

 誰かを笑顔にして、真っ当にお金を稼いで、行き詰った人間の背中を押す。


 これ以上すごいことはないと、ハクは思う。


「ところでティエ……ハク、というのは何ダ?」

「私の名前だよ。伊波がつけてくれたの!」

「……ワタシが言えた話ではナイが、ターゲットと何をシテいるんダ」

「い、いや、これがその、色々とあって……!」

「惚レタのか?」


 その問いかけに、ハクは数秒間のフリーズ。

 ようやく起動し、「うーん……」と難しそうに唸って首を捻る。


「そういうの、よくわかんないなー。でも、料理が上手で、私のこと殺し屋だってわかってて普通に接してくれて、初めての友達になってくれてさ。お仕事も一生懸命頑張ってるし、私のことすっごく気遣ってくれるし、話してると楽しいから……」


 「だから」と言い加え、ラスクを一口齧る。


「一緒にいたいって思ってる。……できることなら、ずっと、このまま」


 頬を染めたままそう答え、以降はただラスクを食べるだけの機械と化してしまったハク。そんな彼女を見て、フライフェイスは仮面の下で小さく微笑んだ。

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