遺書

新多 れもん

遺書

 スマホのメモを開いたまま思考回路が停止する。目的もなく、行き場をなくした親指は画面に触れることができずにさまよう。何かしら書かなければと自分を奮い立たせて、五十音順に一文字ずつ入力しては消すという作業だけを繰り返す。仕事をはじめた親指は、手袋にある専用の穴から顔を出し亀のような格好と亀のようなスピードで動く。

 今日は雪が積もっていた。過ぎた秋もようやく姿が見えなくなり、先の春も顔を出さない冬のちょうど真ん中みたいだ。

 どれくらいこうしていたのだろう。寒さに震えてハッとした。悪い夢を見て飛び起きるみたいなあの感覚。ずっとこのベンチに座って指を動かしていたはずなのに急に意識が戻ったように勢いよく顔をあげる。何か違和感があると思ったら妙に心音がはやい。口から空気が行ったり来たりして肺が忙しなく働いている。そのたびに吐き出されるのは温度しか持たない掠れた呼吸。口から逃げる水蒸気が白となって目の前を覆う。目尻にほんの少しの重みと温かさがのっていて湿っぽい。親指で濡れた跡をなぞるようにして拭うと思ったよりも下にたどりつく。頬や顎まで濡れていた。泣いたのなんていつぶりだろう。涙腺が正常だったことに驚く。

 ああ、私怖いんだ。変わることが。手放したくないと思えるものに出会ってしまったから。水を含んだ足元の雪をのみこんだみたいに心がずしんと重い。さっきまで真上にあった太陽がいつの間にか空に溶け込みはじめあたりの景色をオレンジ色に染めている。

 愛してる

 今から行くね

 うちわ見たよ

 笑顔

 お疲れ

 帰ってくる

 キーホルダー

 クイズ

 結婚したら

 恋に落ちてよ

 さあ

 幸せ

 好きな

 世界一

 そこに

 タイプ

 近づいた

 付き合ったら

 手

 遠くの子

 なんでも

 二階も

 ぬいぐるみ

 ネイル

 ノノ

 ハマる

 秘密

 振って

 ヘア

 他の

 真似して

 みんな~!

 向かい

 目を見て

 もっと

 約束

 許して

 夜な夜な

 来年

 了解

 ルイボスティー

 練習

 ロング

 輪

 を見て


 文字がひとつ現れると画面下方にずらりと並ぶ入力候補。それを見るだけで涙があふれた。あの時あの感情が鮮明によみがえる。一文字一文字に物語がある。

グループに加入した日。皆からの愛がほしくて私のすべてでファンのみんなを愛して、私のすべてを使ってみんなへの愛を伝えた。

毎日会いに来てくれるファンの子に可愛いって思われたくて自分磨きをした。昔好きだった人に『みっともない』って言われてもファンの子が『かわいい』って言ってくれればそれでよかった。

髪をきったり、たまたまハマった飲み物とかそんな些細なことでもみんなの心をつかみたくて毎日報告してたな。

一番初めに出てくる言葉ほど多用している言葉で、蓄積された思い出はずっしりとしている。その重みで我に返った。ああそうだ。これは簡単に手放せるものじゃない。私は、ノノはほんとは存在しないんだ。空っぽだったんだ。そこにみんなからの愛が積もりに積もって結晶になってノノが生きてるんだ。

 でもどうやってこの思い出を持ったまま遺書最後のメッセージがかけるの?

 ツインテールの分け目も、リンゴの香水のにおいも、私物を買うときでも赤ばっかり選んじゃうのも、カラーで傷んだ髪質も、夜中のコンビニでもびくびくしてるのも、足の小指ぐらいしかないお菓子を食べてしまっただけで背徳感で押しつぶされそうになるのも、LEDみたいにキラキラなネイルも、カメラを向けられれば完璧な笑顔をつくれるようになったのも、私でも生きてていいんだって思えたのも、本気で誰かの幸せを願ったのも、心から笑えるようになったのも、

「全部みんなのおかげなの」

 口からするりとこぼれ落ちた言葉が神経を伝って親指を動かす。これがきっとみんなに向ける最後のメッセージ遺書。7年間休むことなくファンクラブに綴り続けた私からの愛はちゃんとみんなに届いてたかな?

 _ちゃんと伝わってるって、自惚れてもいいよね?

 だってみんな、こんなに私を、ノノを見てる。


 アイドル“ノノ”の卒業コンサートはあいにくの雨だった。湿気でうねる髪を高温で巻いてつくったトレードマークのツインテール。動くたび香るリンゴの香水。いつもより重みのあるフリルたっぷりの真っ赤なドレス。リンゴの形のビーズがついたぷっくりネイル。きらびやかな照明に照らされノノはマイクを強く握る。ペンライトで真っ赤に染まった客席が静まる。全員がノノにくぎ付けになる。



「私、ノノはアイドルを卒業します!」





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