火の災い
カリカリ、バタン、コツコツ。カロンは騒音で目を覚ました。
ベッド一つでほとんど一杯になってしまう狭い自室。窓のない部屋だ。昼間でも暗く、夜になれば本当の暗やみになる。
そんな暗がりにぼんやりと浮かぶ
「警戒心というものが死んでいるな」
低く響く声。聞き覚えのない若い男の声。カロンは瞬時に覚醒し、枕元のナイフを手に取った。
「待て。細かい話はあとだ。いますぐここから逃げろ」
男は落ち着いている。すぐに危害を加えるつもりはなさそうだったが、カロンはナイフを構えたままベッドの上を後ずさった。
「お前が死んではオレが困るのだ。ここから去れ、いますぐに」
暗やみに慣れたカロンの目は、かろうじて男の輪郭をとらえた。カロンが知る限りでいちばん大きな男性――フロストよりも背が高いかもしれない。黄金の瞳はほんのわずかな光を受けて闇に浮かんでいる。
髪型、容姿、何もわからないが、カロンは不思議とその男を知っていた。そして、おぼろげな記憶に従えば、この男は信用してはならない。
警戒をゆるめないカロンを前に、男はがしがしと頭を掻いてうなった。
「逃げろと言うのに! 分からん女だなお前は!」
吠えた男に、カロンは肩を揺らす。と、漂う匂いに焦げ臭いものが混じっていることに気がついた。嗅覚が警鐘を鳴らす。カロンは黙って立ち上がり、寝巻きの上にケープを羽織った。もちろん、ナイフは手放さない。
男は一安心したように息をはいて先導するように歩きだした。「こっちだ」少し距離をあけてついて行くカロンを、時々振り返って確認している。なぜ知っているのか、裏口の扉を男が開けた。
「ああ、来おった……」
嘆きの声が男の口から漏れる。こんなところで立ち止まられてはたまらない。呆然としている男を警戒したまま、そろりそろりと近づいていく。焦げ臭さが強くなる。
森があかあかと燃えていた。
「なに、これ……」
そこではじめて、男はカロンが背後から覗き込んでいることに気がついたらしい。「行くぞ」「行くってどこに」「どこでもいい、とにかく遠くに――」カロンの手を引いて無理やりその場を離れようとした男の声は、不意にさえぎられた。
「どこに行くつもり? 飼い犬のくせして」
鈴が転がるような美しい少年の声だ。思わずそちらに目をやると、声の印象そのままの儚げな少年が火の中に立っていた。炎に巻かれても平気でいる姿や少年の口元に浮かぶ酷薄な笑みを見れば、ただの迷子でないことは明らかだ。
「――シグマ」
男はギリ、と歯を食いしばった。
森の炎でようやく明らかになった隣の男の姿は、カロンの友人・ピーコックにどこか似ていた。彼の若かりし日の姿、と言われれば納得できてしまいそうである。もっとも、男の黒髪と黄金の瞳がピーコックとは別人であることを示していたが。
男と向き合った少年は歌うように言葉を発した。
「何重にも結界があって、かなり鬱陶しかったよ。特に隠匿のは酷かった。でもゼフィアは最後にいい仕事をしてくれたね」
僕から隠れようだなんて、カロンも考えるよね。少年はとろけるように笑った。
男は威嚇するように喉を鳴らしてうなる。その姿はまるで。カロンは唐突にひらめいた。
「……あなた、あの、犬?」
男はなぜ分かったと言いたげに驚いて目を見開いていたが、地面を踏みしめる音に反応して再び正面に向き直った。
「どうしてそんな人間の肩を持つのか理解に苦しむな」
燃え盛る森をバックに、少年は役者じみた身振りで両手を広げた。
「お前だって『カロン』には煮え湯を飲まされただろうに。僕がいなければ今ごろ――」
「貴様がいなければ今ごろオレは! ただ、眠っていられた……、はずだ」
男は苦しげに言い切ったが、そのまま喉もとを押さえてうずくまった。
「ど、どうしたの?」
カロンは男の背に手をそえて、少年の冷たい視線から庇うように抱き込んだ。
男の呼吸は少しだけ落ち着いたようだが、カロンはそれ以上なにもできなかった。瞬く間に男は一匹の黒い犬になってしまったのだ。変身術のようだが、おそらく男の意志ではない。
「来るんだ」
少年はもはや笑っていなかった。
黒犬は背を低くして歯をむき出しうなっている。
「来い」
少年が呪いのように命じるたび、犬の身体になにかが起こっているようだった。苦しんでいる。カロンはこの場において無力だった。それでも、この黒い犬はカロンの友だ。
「やめて」
煤けて淀んだ空気を切り裂くように、カロンははっきりと言葉を発した。
「この子を苦しめないで」
少年は表情のない美しい顔でカロンを見た。人間味というものがすっかり削ぎ落とされたような、神聖な美しさ。
「お前がそれを言うのだね、カロン」
「……どういうこと」
「この子を殺したのはお前たちだろうに」
カロンはというと――――妙に
「ちゃんと説明してくれなきゃ分からない」
少年もまた、苛立っているようだった。おそらくだが、彼にとって「カロン」という存在そのものが受け付けないのだ。
「しょせん人間のくせに偉そうな口をきかないでくれるかな。手下に命じてお前を殺させることなんて簡単なんだ」
「あなたが今ここで、自分の手でで殺せばいいじゃないの」
少年は顔を歪めた。
「僕は殺しやしない。君たちと違ってね。かわりに死ぬより苦しい思いをさせてやろう」
少年は一歩一歩近づいてくる。魔術師か、剣士か、あるいは飛び道具を使うのか。カロンは持ち出したナイフの柄を握り直した。相手がどんな方法で攻撃をしてくるのだとしても、この相棒ではちょっと頼りない。
ニィ、と笑って、少年は指を鳴らした。パチン、と弾けた音がする。まずい、と本能的にふるったナイフに手応えがあった。
「反応が早いね」
虫の形をした魔獣だ。すでに半分にされたそれが、体液をまき散らしてピクピクと動いている。魔力で練られた幻影ではない。
「ここは墓所なの」
カロンは静かに言った。己の中に怒りというものがあることを、もう長いこと忘れていたような気がする。
「身を守るため。食べるため。戦いそれ自体のため。私たちは殺し続けるけれど」
それでも
「ここは墓所なの。分かる?」
「全然。さっぱり。蹂躙ご自由に。食い扶持なんざ知ったこっちゃない。戦いのための戦い、意味不明! 生命に興味はないよ。大体、殺したのは君だろう」
少年はつまらなそうに言ってふたたび指を鳴らした。大蛇の形をした魔獣が現れる。巨体。このナイフでは心臓まで届かない。カロンは瞬時に悟った。
(剣は小屋に……)
取りに行っている時間はない。背中を見せていい相手でもない。カロンは唇を噛んだ。魔獣は獲物をどう料理しようかと
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