エピローグ


 暗い、暗い闇のなか。そこが怖い場所ではないと知っている。

 懐かしいような寂しいような静けさのなか、誰かの手が頭を撫でた、気がした。



 カロンが目を覚ましたとき、かたわらにはフロストがいた。腕を組んでこくりこくりと船をこいでいる。時間は分からなかったが、あたりが暗いので夜なのは確かだ。


 かすむ目をこすって起き上がろうとすると、その衣擦れの音で騎士は目を覚ましてしまった。


「……カロン?」


 薄暗がりの中、フロストは確かめるように手を伸ばしたが、カロンに触れる前にぐっとこぶしが握りしめられ、膝の上に戻っていった。


「わたし、どれくらい眠ってた?」


 それだけ言って少し咳き込んでしまった。慌てて水差しを持ちだす騎士が少しだけおかしい。


「……」


 騎士は黙り込んでいる。水を飲んでいるあいだ何一つ見逃さないというように注視してくるので、カロンは少しばかり居心地が悪かった。


「ねえ、どのくらい……」

「丸三日間寝ていた。四日目だ」


 そんなにも眠っていたのか、という驚きとともに、喉の不調にも納得する。


「みんなは?」

「ルドガーは仮眠。ガーネッタは組合の会合に」


 会合があるということは、夜とはいえ深夜ではないのだろう。ベッドヘッドにもたれて窓の外を見上げると、丸い月が浮かんでいた。


「満月だ」


 フロストが泣きそうな声で言った。


 夜だというのに、このところカロンを悩ませていた痛みも熱もない。代わりに、なにか大事なくさびが抜かれてしまったような奇妙な感覚がある。カロンは胸のあたりにそっと手をあてた。


「どうした、痛むか」


 時々ズレたところはあるが、元来やさしい男なのだろう。今もまるで自分の胸が痛むような表情でカロンの様子をうかがっている。首をふって、再び夜空を見上げた。


「また、フロストの演奏が聞きたいな」


 ぽつりと漏れた言葉に嘘も偽りもない。荒くれ者も聞き入るような、踊り子たちが思わず身体を動かすような、そんな音楽をまた奏でてほしいと、心から思ったのだ。


 不意にフロストが立ち上がった気配がしたので顔を向けると、さっさと部屋から出ていくところだった。


「嫌だったかな」


 ひとりごちて、ごそごそと毛布に包まった。どう思われたっていいと意地を張るのは簡単だったが、やさしい人に嫌な思いをさせたくはない。


 ぐずぐずと考え込んでいるうちに、再び扉が開いた。


「カロン」


 フロストの声だ。毛布からちらりと顔をだしたカロンは、そのまま目を丸くした。どこから持ってきたのだろうか、フロストは立派な竪琴たてごとを手にしていたのだ。


 心なしか得意げな表情を浮かべて、フロストは弦の一本をつま弾いた。


 手入れの行き届いていなかった他人の竪琴でさえ見事なメロディーを奏でてみせた男だ。しっかりと手入れされた楽器でそれができないはずがない。


「その竪琴は?」

「ガーネッタが。昨日、酒場で楽士がくしの真似ごとを」


 指先が弦をはじくたび、カロンの瞳は輝いた。メロディそのものが踊るような、思わず手を叩いてリズムを取りたくなってしまうような、嬉しげな音色が夜を言祝ことほぐ。


「歌わないの?」


 フロストは流し目でカロンの方に気を向けると、演奏しながらフ、と息を漏らした。


「私は詩がまずいので、吟遊詩人にはなれなかった。もちろん、家柄もあるが」


 気まずさも後悔もない、ごく自然な会話のひとつみたいにそう言うので、彼のなかでは整理がついたことなのだとカロンには分かった。


「始めに酒場で演奏したときには、仲間を侮辱した者がただ許せなかった」


 リズムのおかげか、フロストの口は常よりもよく回る。


「だが、怒りではリズムが早すぎる。もっと楽しい方がいい。今みたいに」

「わたしはこの間の演奏も好き」


 ふふ、と笑いながらそう言うと、心の底からうれしそうにフロストも笑った。

 


「カロン、目が覚めたなら言え」


 ルドガーが目をしぱしぱさせながら開いたままの扉をノックする。


「仮眠中って聞いたから。ごめんなさい、起こしちゃった」

「俺は構わないが、もう夜だからな。続きはまたの機会に」


 そう言って背を向けたルドガーがぽつりと「無事でなにより」と呟いたので、カロンとフロストは思わず顔を見あわせて笑った。


 満月の夜の演奏会は、こうして幕を下ろした。


 ✕


「元気でね、カロン」

「ガーネッタも。気をつけて」


 夜は明けた。快晴の朝。


 見送りに出てくれた賢者、ガーネッタ・パウケンとは街の東門で別れることになった。栗毛の馬上から見下ろしているのに、地上の賢者は威風堂々として見える。


 満月の夜を越えて、カロンは無事に生きていた。ルドガーとフロスト、それからガーネッタが(ついでにピーコックも)いなければ今ごろカロンはこの場にいなかっただろう。彼らには返しきれないほどの恩ができてしまった。


「教団の連中、騎士団に目を付けられてこの辺りではしばらくは大人しくせざるを得ないだろうし、こっちは大丈夫よ。それよりあなたの方が心配」


 エリジア教団に命を狙われていることが確定した今、たしかにカロンはきわめて危険な状況にある。ガーネッタいわく、師と暮らしていたあの霧深い森に戻るのがもっとも安全らしい。


「霧の森は、悪意ある人たちから代々のカロンを守るための場所なの。例外はあるけれど、基本的に安全なはず」


 その例外というのが、ピーコックと先代カロンが仕込んだ魔術のような、特殊な転移魔術なのだろう。それならたしかに「基本的には」安全だ。魔力をたどる能力を持った人間などそうホイホイいるわけではない。


 せめて教えておいてほしかった、と先代を恨むものの、今さら言っても仕方がない。


「我々はカロンを森へ送ったあと、ブラックウッド公のもとへ戻る」


 何かあればそちらへ、とルドガーは律儀に告げた。カロンの予想に過ぎないが、もし先代カロンの知己であるガーネッタが頼ったならば、何だかんだ言いながらも力を貸してくれるに違いない。


「世話になった」

「フロスト、あなたもし騎士団辞めたらうちの酒場で雇われてちょうだい」

「辞めはしない。……が、まとまった休暇をもらったら、また来る」


 報酬ギャラは出すわと言う店主とそんなものは受け取れないという騎士のあいだでひと悶着あったが、演奏の礼に食事をおごるということで話が付いたらしい。フロストにとってはそれが一番の報酬だろう。


 「先に行っている」ガーネッタとの話がまとまって青毛の馬を出したフロストを尻目に、カロンはまだガーネッタとの別れを惜しんで――否、世話を焼かれていた。


「病み上がりなんだからきちんと寝ること。帰りの食料はちゃんと補給したわよね。それからご飯もちゃんと食べて。これはお弁当。それから……」

「ガーネッタ」


 止めたのは、ルドガーだった。


「俺が責任をもって面倒をみる。安心しろ」


 止めたのではなく引き継ぎであった。


 カロンはただ硬直していることしかできない。下手なことを言えば、二、三は注意事項が増えそうだったからだ。妙なところで通じ合ってしまった騎士と賢者は、がっしり握手をした。


「またいつか会いに行くわ」


 ガーネッタは美しくほほ笑んでカロンを見上げた。


「それじゃ、またね」

「ええ、また」


 東の門を出る。少し向こうにフロストの青毛の馬が見えた。振り返れば、ガーネッタはまだ門のところで三人を見送っていた。きっと見えなくなるまであそこに立っているつもりだ。あとはもう、振り返らずに先を急いだ。



「ところであの魚、食べられたの?」

「……」

「……」


 フロストの気まずい表情がすべてを物語っていた。

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