短編 朝

あしゅな

「この朝食が終わったら、私はあなたの命を取り除いてあげなきゃいけないの」

 いつも通りの週末の朝、ダイニングで、女は何でもない日々の報告のように、さりげなく、男に告げた。

「つまり、君は僕を殺すということ?」

「ある意味合いでしなきゃいけないのであれば、その表現しかできないかも」

 男は彼女が冗談として言っているわけではないと理解していた。そもそも彼女は好んで冗談を言うような人間ではないし、冗談を言うにしても、理知的で、難解で、遠回しな言い方を好む。「命を取り除く」なんて直進する比喩は、他の人はどうであれ、彼女は決して使わない。つまり、男の命はまさしく取り除かれるのだ。

「すると、辞書的に僕が死ぬというわけでもないし、具体的に君が僕を殺すわけでもないわけだ。しかもそれはその瞬間じゃないといけないのだろうね」

彼女はコーヒーに入れたミルクをかき混ぜながら頷く。男は既に、自分の命が取り除かれることを受け入れていた。彼女が言うのならそうなるしかないのだ。それは出会った時からそうであったし、今もそうであろう。

 ダイニングテーブルには彼の最後の晩餐となる、至って平凡な朝食が食べかけの状態で並んでいた。卵のサンドイッチ、ミニトマト、ジャムのかかったヨーグルト、ブラックコーヒー。

「こんなものしか用意できなくてごめんなさい、でもついさっき、これは必然的に決まってしまったことだから」と彼女は申し訳なさそうに、しかし、仮に男が不服でも、改善は期待できなさそうな、確かな口ぶりで言った。

「いや、寧ろこうでなくてはならないと言う気すらしているんだよ。運命なんてものは日常的なものでなければならないんだ」

 二人は見つめあい、ほんの一瞬微笑みに似たものをたたえあってから、食事を再開し、粛々とそれを終えた。ダイニングテーブルには空の皿とカップが残り、女は皿をシンクへ片付け、男は机を拭いて、とうとう食事の影を消してしまった後に、男は二杯目のコーヒーを二人分淹れた。上品なコーヒーカップにはコーヒー豆の油分が揺れながら湯気を立たせていた。

「このコーヒーは朝食に入るのかな」

 男は、新鮮に満たされたカップを二人分、机の定められた位置に置き、それから注意深く腰掛けて尋ねた。

「いいえ、それは朝食ではないわ。もうあなたは取り除かれなければいけない」

そう言うと女は男に近づき、寸分の狂いもなく男の後ろに立った。男は必要に駆られてゆっくりと目を閉じた。不思議なことに男の瞼越しに映るものは、それを介さないものよりも鮮明だった。淹れたてのコーヒーの香り。椅子の硬さと温もり。烏のささやきと登校中の子どもの声。それらの断片的で強調されたニュアンスが、彼の心地よい世界を作り上げ、靄のない景色を男は眺めることができた

 やがて、女のほっそりとした温もりの掌が、男の頬を包み込むのがわかった。男はそれを受け入れた。最初から抵抗する理由など存在しなかったし、彼女の指先はそれを補強する説得力にあふれていた。ゆっくりと、女と目が合うように、男の顔の角度は調整され、そして持ち上がる。体と思考の距離が遠のくのを感じ、男はまず体から取り除かれたのだと理解した。抜け殻にもう用事はない。残った男の肉づいた骸を抱えた女の掌は、頬を突き抜け、歯を撫で、鼓膜を弾いて、脳に達した。そして女と男は初めて、上下アベコベのキスをした。少し乾燥が混じった冬を感じさせた感触の後に、男の視覚以外の感覚は致命的なふうに剥がれ落ちた。瞼越しに透けたシーリングライトがやけに明るかったのを、男は覚えている。

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短編 朝 あしゅな @ashna_

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