第4話 摂政関白

 この宗教団体は、摂関教と呼ばれる団体だった。集団としては、

「摂関研究部」

 というサークル名で、やっていることは、歴史の研究であった。

 特に平安京に造詣が深く、桓武天皇が藤原京から、平安京に遷都した時から、江戸幕府が滅亡して、首都を東京に移すまでの、約1000年ちょっとの間、都が京都にあった間の研究である。

 歴史では、平安時代から後は、武家政治が中心なので、学校の授業などでも、

「平安文化」

 として習うのは、平安時代の約400年くらいであろうか。

 それでも、武家の時代が、600年であるのに比べて、平安京が政治の中心だった時代の長さというところであろうか?

 平安京の都が、途中少しだけ、平家によって神戸の福原に移された時期があったが、異本的にそれ以外は、朝廷がある都として存在していた。ただ、南北朝時代には、吉野にも南都があったという歴史はあるが、本来の都は、平安京である。

 歴史でも表舞台としては、京都に都があった時、桓武天皇の遷都から始まって、鎌倉に幕府が開かれるまでは、京都は表舞台だった。

 だが、室町幕府も平安京の中に幕府が存在したが、その弱体ぶりはひどいもので、応仁の乱においては、京都の街が、焦土となっていたのだ。

 その後すぐに戦国時代に突入し、

「京に上って天下を統一」

 という群雄割拠がひしめく中で、織田信長が覇権を握り、クーデターによって、流れた天下を、羽柴秀吉が握り、天下を統一。

 秀吉は、京都に近い伏見で政治を行っていたので、平安京内ということではない。

 徳川時代になると、政治は、江戸に移るので、実際に京都がクローズアップされるのは、幕末である。

 尊王攘夷運動が始まってから、長州、薩摩・幕府の争い、それが、薩摩長州が手を握ることで、幕府が孤立する。

 戊辰戦争の勃発が、鳥羽伏見ということで、この時だけ、少し京都がクローズアップされるが、すぐに、東京となった江戸に、遷都が行われることになるので、京都というのは、

「古都」

 ということになったのだ。

 平安京というと、皆が平安時代しか思い浮かべないのは、

「政治の中心が、どこなのか?」

 という問題からであった。

 元々平安京が落ち着くまで、都がどれほどいろいろなところに移ったかを考えると、

「よくも、1000の都ができたものだ」

 と言ってもいいだろう。

 元々、飛鳥にあった都だったが、栄えたのは、厩戸皇子(聖徳太子)の時代であり、その後の時代まで、蘇我氏が絶大な権力を握っていた。

 それを、

「乙巳の変」

 というクーデターによって、蘇我氏を滅亡させ、中富鎌足、中大兄皇子らによる、

「大化の改新」

 が始まったことで、世情は混乱してくる。

 まず、都を、飛鳥から、難波に移した。その時、朝鮮半島の情勢がおかしくなり、新羅と高句麗の連合軍によって、百済が攻められた時、朝廷に助けを求めてきた。

 それを中大兄皇子が、

「百済とは貿易の面で優遇しないといけない」

 ということで、朝鮮半島に軍を送ることにしたのだが、それが大敗を喫し、全滅してしまう。

 軍を出す手前もあり、都を筑紫に移したのだが、大敗してしまったことで、都をまた、飛鳥に戻したが、

「もっと奥地に都を置かないと」

 ということで、琵琶湖のほとりの大津に置くことにした。

(途中、信楽にも都があった時期があったが)

 60年くらいの間に、何度遷都をしたことだろう?

 その間、朝鮮情勢に首を突っ込んでしまい、危うい状況に日本を陥れたことで、大化の改新もなかなかうまくはいかなかった。

 基本的には、律令制の基礎になるものだが、ほとんど浸透しなかったといってもいいだろう。

 そんな時代から、藤原京を経て、奈良の平城京へと移ることになるのだが、奈良時代というのは、疫病などが流行ったりと、混乱に混乱を極めたものだった。

 聖武天皇による、大仏開眼や、道鏡の登場などと、その背景には、疫病や飢饉で、都が乱れたことにあった。

 その間に、力をつけてきたのが、中臣鎌足を祖とする、藤原氏だったのだ。

 都は、長岡京から、平安京へと移る。

 律令制の普及において、国家の役人が増えたことで、都が、長岡京では賄えなくなったのだ。

 満を持して登場した平安京が、1000年の都になるのだが、誰が、そこまで続くと、当時の人間は想像したことだろう?

 平安京に移っても、決して問題が解決したというわけではなかった。

 飢饉や天候不順は定期的に起こり、

「死者が、そこらへんに転がっていて、死者から衣類は金銭を巻き上げるなどという、いわゆる罰当たりなことが、平気で行われていた時代」

 だったといってもいいだろう。

 ただ、平安京は、基本的に貴族の文化。その文化において、いわゆる国風文化というものが根付き、ひらがななどのような文字が発達したおかげで、文章が残せるようになった。

 紫式部や清少納言のような、

「宮中文学」

 が流行るようになり、和歌などと、歌合せなども、頻繁に行われたようだった。

 そんな時代に、政治を見ていたのは、天皇の補佐役だった、藤原氏だ。

 藤原氏は、

「天皇に変わって政治を行う」

 という形の地位である、

「摂政関白」

 という地位を世襲していた。

 実際には、みかどと呼ばれる天皇がいて、その下に、藤原摂関家があるというわけである。

 特に、藤原道長、頼道の時代には、藤原氏は栄華を極め、道長に逆らうと、朝廷内での地位を失うという時代になっていた。

 その後、武士の時代になっても、その権力は朝廷内では大きなもので、秀吉が、天下を統一して、征夷大将軍にはなれないということから、藤原氏の養子となり、関白になったというのは、有名な話である。

 藤原道長は、紫式部とも関係があり、紫式部が宮中で力を得られたのは、道長のおかげだったといってもいいだろう。

 そんな藤原摂関家、朝廷の中で巨大な権力を持っていて、天皇とも。昵懇であり。天皇も、藤原氏には頭が上がらないというところであった。

 そんな藤原氏を研究しているのが、

「摂関研究部」

 であった。

 つまりは、

「摂政、関白の政治や、それにまつわる政治体制などを研究しているのが、摂関研究部だ」

 ということである。4

 これは、あまり知られていないことであるが、道長の時代の少し後に、藤原氏が、二分するような争いが、朝廷内で持ち上がったという話が一部で伝わっていた。

 摂政と関白が同じ時期に、そして同じ藤原氏で誕生していたのだ。

 これは、気の弱い天皇が、それぞれ覇権を争っていた藤原氏兄弟に対して、それぞれに、摂政と関白の地位を与えたのだ。

 同じ時期に摂政と関白がいても問題はないので、今まで表に出ることはなかったが、実は水面下で、それぞれの派閥が存在し、まるで、

「プレ応仁の乱」

 と言ってもいいような、一触即発になっていた。

 もし、この時、争いが起きていれば、その後の保元・平治の乱もなくて、そもそも、武士の存在すらあったのだろうか? 僧兵くらいがあったかも知れないが、土地によって、主従関係が生まれるという、包茎制度の時代がきたかどうか、分からない。

 まだ、武家がいなかった時代だったが、実は武士になりかけの集団がこの時代にはいたという話が伝わっていた。

 武士は一般的に、荘園を守るために誕生したと言われる。僧兵も、同じように寺社にて、荘園を守るための部隊を育成したことから生まれたともいう。

 そんな中、武士でも、僧兵でもない集団が、朝廷内には、密かに存在していた。

 いわゆる、

「守備隊」

 と言われるもので、何を守っているのかというと、守護するものは、

「藤原摂関家」

 であり、今でいえば、さしずめ、

「摂関家親衛隊」

 とでもいえばいいのか、本来なら、天皇や皇族を守る近衛兵のようなっものはあったが、貴族を守る、しかも、特定の一族を守るというような一団は、普通であれば考えられなかった。

 なぜなら、貴族などの家が軍事力を持てば、天皇に対してクーデターを起こしかねないからだった。

 だが、藤原摂関家だけは違った。

 彼らは、天皇に変わって、あるいは補佐して政治を実際に行うわけなので、その地位は、

「天皇あってのものだ」

 と言えるだろう。

 だから、藤原氏だけは、軍隊を持つことが許されていた。

 その代わり、藤原氏に何かあっても、天皇にはかかわりのあることではないので、藤原氏は、自分たちのことは自分たちで何とかしなければいけなかったのだ。

 そんな状態になると、藤原氏は、近衛兵に負けないほどの、いや、さらなる強力な兵を持つことになった。

 それが、

「摂関警備兵」

 であった。

 藤原氏は、その時期、兄弟で、摂政と関白の地位についていた。

 貴族は、どちらの側につくかということで、考えあぐねていたが、しょせんは、浅知恵しかない。

 結局中途半端な状態で、戦乱に巻き込まれ、ほとんどが、朝廷内で力を失うことになった。

 摂政と関白の兄弟が争うのを見ると、兄弟ではないが、

「壬申の乱」

 を思い出す。

 中大兄皇子が即位し、天智天皇となったが、王位継承の順番でいくと、弟の、

「大海人皇子」

 が天皇となることになるのだが。天智天皇が死ぬ前に、跡取りを息子の大友皇子に継がせるとの遺言であったので、大海人皇子は奥さんとともに、吉野に逃れた。

 その隙をついて、大友皇子が即位し、弘文天皇となったのだが、のちに大海人皇子が吉野で勢力を盛り返し、京に取って返し、弘文天皇を打ち取った。

 これが、壬申の乱という、

「古代における最大の内乱」

 と呼ばれるものであった。

 結局、大海人皇子が即位し、これが有名な天武天皇となるのだった。

 天皇は、ここで、天皇中心の中央集権国家を築くことになった。律令制度の基礎を父親の天智天皇が築き、弟の天武天皇が、実行したというところであろうか?

 平安京における、摂政、関白による争いは、この時の、壬申の乱と酷似していると言われている。

 実際に、あまりにも似ていることから、

「後世になって作られた、壬申の乱に模倣した架空の物語ではないか?」

 と言われるようになったのだ。

 だからこそ、

「歴史書は残っているのだが、その信憑性は疑わしく、簡単には信じられないものだ」

 と言われている、曖昧な物語だったのだ。

「曖昧なことは、歴史の事実にあらず」

 ということで、研究は続けられてきたが、いまだにれっきとした史実は出てくるわけではなく、相変わらず、

「伝説の物語だ」

 と言われているのだった。

 小説の世界には、同じようなジャンルでも、言い回しが違うものがあり、意味合いも若干違うというものがある。

 例えば、ミステリー小説などは、推理小説と読んだり、探偵小説と呼ぶこともある。これは基本的には、

「時代の違い」

 なのではないかと思っているのだが、基本的に、ミステリーは海外からの小説ジャンルと言ってもいい。

 シャーロックホームズや、アガサクリスティーの小説、ルパンのような、怪盗が主人公の小説などが、日本に入ってきて、探偵小説というジャンルを気づいた。黎明期には、有名どころとして、江戸川乱歩、横溝正史、甲賀三郎などがいて、明智小五郎や、金田一耕助のような個性豊かな探偵が活躍する痛快活劇が、大正時代から、昭和の戦後すぐくらいまでの時代を作った。

 彼らのような、探偵が爽快に事件を解決するような話であったり、時代性もあってか、異常性癖者による猟奇殺人であったり、などの小説が受けていた。

 そして、戦争中は、当局から探偵小説のような娯楽性の高いものは、発禁とされ、暗黒の時代に入ったが、敗戦によって、表現の自由が保障され、堂々と探偵小説を描けるようになってきた。

 さらに、高度成長時代あたりから、松本清張を中心とした、

「社会派推理小説」

 と呼ばれるものが、出てくることになる。

 そして、推理小説は、次第に一人の作家が、自分のジャンルを確立する時代に入ってきて、

「○○小説の第一人者」

 というような形の小説が増えてきた。

 西村京太郎の、

「トラベルミステリー」

 など、代表例と言えるのではないだろうか?

 このように、小説は一つのジャンルになっているものも、時代時代で呼び方が違ったり、似たようなイメージを感じさせるジャンルでも、そこには毅然としたジャンルの違いがあったりするものが存在する。

 それが、

「歴史小説」

 と、

「時代小説」

 である。

 どちらも歴史に関係のあることだと想像はつくだろうが、その定義について、説明できる人はいるだろうか?

 だが、この二つに関しては、きっと漠然とであるが、言葉の意味はニュアンスから感じ取っているのではないだろうか? 正解を聞くと、皆、

「ああ、そういうことか。それなら理解できる」

 というのではないかと思うのだ。

「歴史小説というのは、史実に基づいたもので、その場面となる事件や人物を題材にした、ノンフィクションが基本であり、時代小説というのは、時代劇のように、史実に基づいた事件などから派生する形で、面白おかしく話を作るという、物語重視の小説である。だから、こちらは基本的にフィクションであり、時代考証も、若干曖昧でも問題なかったりするだろう」

 と言えるのではないだろうか。

 もちろん、小説によっては、史実に充実な話であり、歴史小説かと思いきや、エンターテイメント性に富んだ内容で、結果、フィクションだったりするという、時代小説とされるべき話もあったりする。

 そういう意味では、厳格に分けられたジャンルではあるが、

「歴史小説なのか? 時代小説なのか?」

 と聞かれた時、果たしてどっちなのかが分からないようなものもあるのではないだろうか?

 ひょっとすると、摂関家の争いの文献も、本当は小説であり、エンターテイメントを重視した時代小説だったのかも知れない。

 いつの時代に書かれたものか、ハッキリと分かっていないし、発見自体が結構昔だったにも関わらず、ずっとその存在を知られないようにしていたようだ。

 今の時代になってから、公開されたり、研究されるようになって話題になり始めたが、きっとどこかの時代で、このような小説が、

「時代にそぐわない」

 ということで、封印されたのが、今まで放置されていて、誰の目にも触れていなかったのかも知れない。

 この小説が世に出るようになったのが、20世紀末だった。ちょうど、歴史が少しずつ見直されてきて、過去の定説が、実は、そうではなかったと言われるような時代に入ってきたことで、歴史に対して興味を持つ人間が増えてきたこともあり、今まで封印されてきた本も、どんどん明らかにされてきたのだ。

 しかも、

「時代によっては、情報統制と同じで、歴史認識の統制もされていた」

 と言ってもいいだろう。

 前述の、豊臣の時代から徳川の時代に変わった時も同じだったが、今度はその徳川の時代が終わり、天皇中心の中央集権国家に変わってくると、歴史認識もそれまでとは、かなり違ったものとなることだろう。

 戦後にしてもそうだ。

 それまでの大日本帝国の教育が、

「日本は立憲君主の国であり、国家元首は天皇陛下だ」

 と教えられ、まるで天皇は神であるとまで言われるようになり、それが、そのまま教育になっていた。

「天皇のために、国民は命を捧げる」

 とまで教育されていた時代だったが、戦後、連合国からの、押しつけの民主主義によって、どこまで日本という国が変わっていったというのだろう?

 確かに民主主義の国となり、自由となったのはよかったが、どこまでをよかったと言えばいいのか、戦後教育を受けた人間と、戦前の教育を受けた人間が、どれほどのギャップを持って同じ時代を生き抜いてきたのか、想像することもできない。

「時代が歴史を作るのか、歴史が時代を作るのか?」

 まるで禅問答のようが、どちらもありのようで、どちらもないように思える。

 一つ言えるのは、片方だけということはないのではないか? ということであり、片方だけが正しければ、もう片方は、架空の話なのかも知れない。

「それこそ、歴史小説と時代小説の関係のようではないか?」

 と、梶原は考えるのであった。

 この摂関家の争いの話は、摂関研究部のバイブルとなっている。

 世間では知られていない摂関政治の裏側が、この文献に含まれていると思っている。

 サークルには、この話をフィクションと考えている人、ノンフィクションとして、事実だと思っている人、それぞれがいるようだ。

 確かに、どちらともいえない佇まいがある。ただ小説として読んだだけでも、真相が分からないとなると興味を持った。それに専門家の、この話をフィクションか、ノンフィクションか? ということの評論には、どちらにも説得力があり、判断が難しい。

「よほどの証拠が何か出てこない限り、この平行線はずっと平行線のままとなってしまうだろうな」

 と、思うのだった。

 一度、興味があったので、摂関研究部を覗きに行ったことがあった。あまりにも奇妙な雰囲気だったので、すぐに帰ったが、その時は、

「入部してもいい」

 とまで思ったほどだった。

 後から思い返すと、奇妙な雰囲気というのが、どのあたりだったのかがハッキリと思い出せないくらい、心の中で、

「なかったことにしたかった」

 と感じていたのかも知れない。

 その時の部室の雰囲気も、部員自体の雰囲気も、何もかもが気持ち悪かった。どれか一つとしてまともなものがなかったという部室は、その時が初めてだった。

 まるで、

「ここで見たことは誰にも言うな。もし喋れば、お前を呪い殺す」

 とでも言われたかのようだった。

 元々臆病な梶原だったが、最初に感じた恐ろしさは、次第に薄れてくるのを感じた。しかし、一度薄れたと思うと、今度は思い出すのが怖かった。

 しかし、そう思えば思うほど、思い出さないわけにはいかなかった。

「怖さを忘れるには、一度すべてを思い出さないと、忘れることはできない」

 と言われているようで、それができるくらいなら、こんな苦労はしないというもので、忘れてしまいたいという気持ちが自分の中で強いのだということが分かってきた気がしたのだ。

 大学生活に、不満らしいものはないが、勉強はしているつもりであったが、成績がパッとしなかったのは、自分の頭が、凝り固まっていたからではないかと思えた。

 もう少し柔軟にものを見ることができれば、論文形式の試験も、もう少し形のついた回答ができたであろうに、実際には、文章としての体裁が整っていないような回答であり、「これが大学生の回答なのか?」

 というほどに、ひどいものだったに違いない。

 就職活動をしていても、面接で、トンチンカンな回答をしている自分を、

「どうして、こんなありきたりの回答しかできないんだ?」

 と、普段であれば、もう少し気の利いた回答ができるはずだと思っているのに、自分でもそのわけが分からない。

 案の定、受ける会社のそのほとんどが一次審査で不合格。二次審査に行けたのは、例の、グループディスカッションのあの会社だけだった。

 その時、二次試験で仲良くなった人がいたのだが、彼が、かなり梶原のグループディスカッションに大いなる興味を持っていた。

「どうして、あんなに堂々と反対意見を言えるんです? 僕は、考えは浮かんでも、反対意見をいうことはできない」

 という。

「どうしてなんだろう? まわりに人がいると、俺が中心にならないといけないという気持ちになったのかな?」

 というと、

「うーん、僕が聞いた時は、少し違うイメージだったけどね」

 という。

 彼は、隣の輪の中に入っていたのだ。何と、彼は梶原のサークルにいる梶原を観察しながら、ディスカッションに参加し、そこで、一次審査を合格したのだった。

「俺は逆に知りたいんだ。俺のような反対意見を言っているわけでもないのに、よく一字を通過したと思ってね」

 何と言っても、自分のサークルから合格できたのは、梶原だけだったからだ。

「ああ、俺の場合は、まわりを巻き込むのがうまいというか。正統派意見なんだけど、俺の意見をそのまま押し通せば、それは皆と同じになるだろう? そうではなくて、まわりに俺の意見のいいところを言わせるように仕向けるのさ。本人たちは、自分の意見を言っているように思うんだけど、それはすべて俺の意見を証明させているというやり方さ」

 というではないか。

「どうすればいいんだい?」

 と聞くと、

「簡単なことさ。俺がまず最初に発言することさ。そして、その時にありったけの正統派意見を俺が言ってしまうのさ。そうすれば、他の人が何を言おうとも、俺の意見に対してのフォローでしかなくなるということなのさ」

 と、彼なりの話術理論を話してくれた。

「なるほど、それだったら、納得がいった。俺とはまったく正反対に見えるけど、理論的にはまっとうな考えなんだよな。そう思うと、お互いに的を得ていて、面接官を唸らせるやり方なんだって思えてくるよ。じゃあ、君は、自分のやり方に絶対の自信を持っているんじゃないか?」

 と聞くと、

「そうだね。相手を誘導することで、こちらの力を錯覚させることができるという意味では、1対1の面接でも、十分に有効なやり方だって思えてくるよね」

 と思えたのだ。

「だけど、俺のやり方は、グループディスカッションでしか通用しないやり方だよな。相手が面接官なので、反対意見をいうわけにはいかない。正統派意見をいう中で、いかに自分をアピールするために、言葉選びをするか? というのが、個人面接なんだろうからね」

 と言いながら、思わずため息をつく梶原だった。

「就職試験における面接なんて、ある程度聞かれることを用意しておいて、いかに答えるかを最初から用意しておいて、練習をする。きっとそれが一番の合格する秘訣なんだろうね。でも、俺は、皆と同じようなことをしていては嫌なので、とにかく、自分の意見を相手に、自分も、最初から同じ意見だったということを思い込ませるようにすれば勝ちだと思うんだ。相手の意表をいかにしてつくかということが面接の極意じゃないのかな? 相手が、ああ、やられたと思えばこっちの勝ち、いかに相手を化かすかということなんだろうね?」

 と、彼は言った。

「言葉でいうのは簡単なんだけどね」

 というと、彼は苦笑いをしていた。

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